江戸の陶器で、玉川焼という名をお聞きになったことはありますか?

  江戸といっても郊外、調布焼と言われたこともあるそうですが、調布といっても現在の稲城市、京王よみうりランド駅の隣が稲城駅、あの辺ですね。昔、ここの坂浜村に百姓兼焼き物を作る、どびんやという屋号のの家がありました。半農半陶といいまが、農閑期に近所の人が使う日用雑器、土瓶、水瓶、すり鉢とか作る、こういうのは全国に案外あったようです。さて、この利兵衛という家の4代目利兵衛が陶工を目指し、京都、瀬戸、伊万里など各地で修業し、帰郷して本格的な窯を開きました。嘉永頃(1848〜53)かとされます。作品に「丸の中に玉の字」の印を捺し、玉川焼と名乗りました。この印のデザインは、近所の国分寺の瓦にある「玉」の刻印からとったものです。国分寺瓦の玉は多摩の意味です。後に理由は不明ですが、瓢箪内に一ツ焼の印も捺し、一ツ焼とも呼ばれました。そして榎本紫水と号しました。

  作風は茶陶を中心に、高麗など古陶の写しや楽了入の写しや色絵も作りました。この茶陶を指導したのが裏千家11代家元玄々斎だといいます。年表を見ると、玄々斎が江戸に来たのは嘉永4年(1851)からの一年間なので、この間のことなのでしょう。二人が知り合った経緯は不明です。紫水が作った引札(宣伝チラシ)に、玉川焼の偽物が出るが、自分が本家であり、使用土は近所の大丸瓦谷戸の粘土だとあるそうですが、さて、偽物まで出るほどというのに、実は私は玉川焼を、茶会でも美術館でも骨董の売り立てでも見たことがないのです。

    いや一回だけありました。京都の裏千家茶道会館で、何かの展覧会で、玄々斎箱の黒楽茶碗でした。たしか図録はなかった。私にとってはやはり幻の陶器です。紫水は幕末に死去し、明治頃まで窯は続いたようですが。

   江戸の幻の陶器はまだあります。伊勢で創られた萬古焼(古萬古)は、宝暦頃、創始者、桑名の豪商沼波弄山(ぬなみろうざん)が、萬古焼を江戸で販売したところ評判がいいので、江戸でも製作をと、本所小梅の別邸に窯を築き、茶器を焼いています。本だと江戸萬古、小梅萬古など書かれていますが、さて、これがそうだというのを見たことがない。古萬古は、尾形乾山の影響を受けているといいますが、赤絵、紅毛写しに特徴があり、煎茶器が多いのが特徴と思いますが、さて、どれが江戸萬古か、私には分からない。萬古焼には詳しくありませんが、作行きは伊勢で作られたものと全く同じとか。今まで、江戸萬古と表示された品を見ていないのです。江戸萬古は30年ほどで潰れたとか。

   同じようなものに江戸吉向(えどきっこう)があります。伊豫大洲の人、治兵衛が享和年間(1801〜3)京都で習得した楽焼で大成功、吉向の名を得て、現在でも子孫が、十三軒と松月の二家に分かれて上方で盛業中、千家にも出入りしているからご存知でしょう。治兵衛は、片桐石州の子孫の後援で江戸に出て、向島で焼き物を作ります。治兵衛は、岩国、信州須坂、伊豫大洲、紀州などの大名に招聘されて仕事をしたこともあり、常に江戸で焼いたわけではなく、養子が手伝ったようですが、治兵衛が文久元年(1861)死去すると、明治には廃業しました。上方の後継者のように続いていれば、良い茶陶が東京に残ったかもしれないのに!そして楽焼で同じ作風のこともあり、やはり、これが江戸吉向の遺品とは特定出来ないんですね。つまりこれも幻なんです。やれやれ、また次回に

     萍亭主