佐原菊塢は百花園の引札(今の宣伝パンフレット)に「すみだ川の土を もて(隅田川の中洲の土だといいます)都鳥の形をうつし、あるいは春秋の花のもやうの陶を製し、世にひさぐ、よってすみだ川焼といふ」と書いています。そこで、この焼き物は隅田川焼として、世に知られます。別に菊塢は、乾山の窯にならい、当時の文化人の一人、白酔庵観阿から、二世乾山の伝書を手に入れたと書いているそうで、また、師匠の尾形周平は乾山に心酔して尾形姓を名乗った人ですから、乾山風の焼き方であることは、確かでしょうが、デザインはそれほど乾山写しとも言えません。都鳥の絵の皿や鉢が多く、春秋文様の品の方が少ないのでは。そして、隅田川焼と辞書にもありますが、器の印は「角田川」「スミタ川」で、「桜形内に百花園」の印は明治以降というのが定説です。
百花園の評判の高まりで、文政12年(1829)には、11代将軍家斉が、隅田川遊覧の時に立ち寄り、弘化2年(1845)には12代将軍家慶が訪ねます。当時としては破格のことで、家慶の時には御前で隅田川焼を焼いて見せたといいます。この時は、菊塢は14年前に死んでいて、二代目が取り仕切りました。その後も佐原家が代々百花園を維持し、窯も続けますが、主人が自分で作業したのではなく、陶工を雇っての営業のようです。近所の今戸焼の陶工が大半でしょう。明治になると土を京や瀬戸から買い入れたといいます。しかしついに大正くらいに閉窯したようです。
やがて昭和14年、とうとう東京市に寄付して公園となり、昭和20年の空襲で窯も含めて全焼、荒廃しましたが、昭和24年から復興が進み、現在の状態になりました。佐原家は今でも園内に「茶亭さはら」を経営しています。お土産に陶器の都鳥の形の箸置などを売っていますが、瀬戸に発注しているそうです。佐原夫人は、池之端江戸千家の茶人で、一度、席にお伺いした時、流石に菓子鉢に見事な隅田川焼が使われていて感心しました。15点ほど都の登録文化財の隅田川焼をお持ちのようです。
都鳥の香合や都鳥絵の茶碗は、実は三浦乾也や白井半七、今戸焼でも作られていて、それらも隅田川焼と呼んだり、自称することもあって、紛らわしいのです。江戸末期創業の言問団子の皿も都鳥の絵がありますが、昔は隅田川焼かも知れませんが、今はどうでしょう。皿、鉢、盃などの雑器は低火度のため壊れやすく大事にもされず、香合、茶碗もそれほど多数には出てきません。近代の白井半七や他の作家の写しはわりと見ますけれど、隅田川焼の素朴な美しさより精巧さが目立つ気がします。今日はこの辺で
萍亭主