三浦乾也が晩年に窯を構えた向島長命寺は、桜餅と隅田川七福神の弁財天で有名ですが、ここから1キロほど、20分も歩けば、福禄寿を祀った百花園があります。正月七福神巡りや花見の季節には大変混み合っ場所ですが、ここにも江戸時代には焼き物の窯がありました。

  百花園は文化元年(1804)、佐原菊塢(さはらきくう。鞠塢とも書きますが、簡単な方にしておきます)という仙台出身の骨董商が開きました。菊塢は、風流人で交際上手、酒井抱一始め多くの有名文化人に可愛がられ、川上不白の紹介で大名旗本の屋敷にも出入りしました。そして、向島に三千坪の土地を買い取り、知人に梅一本づつの寄付を依頼したところ、三百六十本があっという間に集まったといいますから、その顔の広さにも驚きますが、骨董屋って儲かるんですねえ。最初は亀戸の梅屋敷に対して、新梅屋敷とも呼ばれましたが、他の樹木や草花も沢山植え、花屋敷、やがて百花園と呼ばれるようになりました。文化人のサロンのようになり、酒井抱一、大窪詩仏、加藤千蔭、亀田鵬斎、太田南畝、川上不白など錚々たるメンバーが来園し、看板を書くなどしました。今も残る門の扁額の「花屋敷」は、蜀山人こと太田南畝の筆ですが、「花屋?」とまでは読めても「敷」の字はどうしてもそう読めないというのが昔からの評判です。これは当時公式には、屋敷とは武家だけが邸宅の意味として使える用語で、標札にはっきり書くのを遠慮した蜀山人が誰でも推量で読めるようにしたのだといいます。一般にも公開したので、ここは江戸の新名所になりました。

   本題に入って、菊塢は京に遊んだ折に、当時有名な陶工仁阿弥道八の弟で、やはり名工と呼ばれた尾形周平に、短期間ですが陶法を学びます。そこで、園内に窯を築き、製品を来訪者の記念品あるいは販売用土産品としました。開窯時期を文政2年(1819)頃とする辞典がありますが、開園後15年も後ではなさそうで、もっと早いんじゃないかと。この製品のモチーフにしたのが都鳥です。

   ご承知のように、都鳥とはユリカモメのことで、平安の昔、色男在原業平が関東に追放された折、隅田川でこの鳥を見て名前を聞くと「都鳥」と土地の船頭が答え、業平が「名にしおはばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」と都の愛人を思って歌を詠みます。これで、この辺に「言問」という地名が出来、「業平橋」という東武電車の駅もあったのですが、業平橋が東京スカイツリー駅と変わり、江戸名物業平蜆も取れなくなり、だいぶ業平も影が薄くなってきました。

   さて、菊塢が最初に作ったのは、都鳥の姿をした香合だったそうです。白と黒、嘴と足だけ赤くした素朴な色絵で、これは茶人に愛される大ヒット商品になりました。

 ご承知のような話を書いているうちに長くなりました。続きは次回に。

        萍亭主