石州流は、大和小泉一万一千石の大名片桐石見守貞昌が流祖の流儀です。貞昌こと石州は、利休の長男道安の弟子、桑山宗仙の弟子ですから、利休の曾孫弟子ですね。遠州とも交流があり、茶人大名として有名でした。「石州様の紋も羽箒」という雑俳の付句は、片桐家の紋章が羽根二枚の横並びなのを、炭道具の羽箒に見立て、茶人大名と歌ったものです。

 石州流は現在、いくつもの分派があり、その正確な数はちょっと把握しきれません。なぜこうなったかといえば、石州流は以前書いた、完全相伝制をとっていて、家元から皆伝を受ければ、次は自分が免状(許状)を出す、一派の家元になれるからです。組織は細分化し、現状は小流派と呼ばれる状態の流派がほとんどでしょう。

   しかし、相伝制によることだけが、石州流の現状をもたらしたのではありません。江戸時代、石州流は、最大の流派でした。 おそらく茶の湯人口の相当な部分が石州流だったでしょう。何故なら、貞昌が四代将軍家綱の茶の湯の師と目されてから、武士階級に広く流行したからです。例えば、大名家は熱心、不熱心にかかわらず、茶道役を召抱えています。交際上、体面上必要でしたから。そして、なにか特段の理由、縁故、歴史等がなければ、将軍家のしている流儀に、というのは自然な流れです。仙台の伊達家などは、三代将軍の頃は遠州流でしたが、後に茶頭をわざわざ石州に入門させ、石州流に変わっています。殿様が茶の湯好きだと、嗜好によって流儀が変わることもあるのですが、殿様が通り一遍の教養としてしか茶の湯をしない藩は、多くが石州流のまま、家臣も上を見習いますから、石州流。江戸城の数寄屋坊主も、大半が石州流で、宗徧流も少しいましたが、千家はまずいません。石州流からは松平不昧、井伊直弼など大物茶人が出ていますし、今は忘れられていても当時は有名だった茶人は大勢います。しかし維新で武士階級が崩壊した時、大名の禄を食んでいた家元たちは大打撃を受けますが、もっとも打撃を受けたのは、武士階級に深く食い込み、あまり他の階級に用いられなかった石州流でした。その影響が今日まで続いていると思われます。

  石州流の危機は、早い段階でも少しありました。「江戸と言ったら」の項で書いた川上不白の江戸での大成功です。不白の門にかなり大勢の大名や武家が弟子入りし、顧客離れに慌てた石州流では当時の片桐家当主が、点前を改変して、つまりわかりやすくして、新石州といわれたといいます(この話、異論もあるようですが)。

  ちなみに、不白に師事した当時の大名を並べると、薩摩藩島津家、長州藩毛利家、盛岡藩南部家、豊後岡藩中川家、越前大野藩土井家、備前岡山藩池田家、信州上田藩松平家、越前鯖江藩閒部家、筑後久留米藩有馬家、遠州掛川藩太田家、遠州相良藩田沼家、駿河沼津藩水野家、美濃郡上八幡藩青山家、出羽上ノ山藩松平家、伊豫西条藩松平家 、長門清末藩毛利家などですが、実はこれ、大名全体の5%強に過ぎません。しかし、やはり、石州系、あるいは茶人世界では驚異だったのではないかと思います。

   すみません、話がそれてしまいましたが、続きは次回に。

        萍亭主