大名が流祖という流儀は、東京にもう一つあるのを思い出しました。有楽流です。
流祖有楽は、本名織田長益、信長の末弟で、源五侍従(げんごじじゅう)と呼ばれました。有楽斎、如庵がその号です。如庵は洗礼名Joanから来ているとか。利休の直弟子ですから、遠州、宗和より少し前の世代ですね。
有楽町は有楽斎の屋敷があったから、数寄屋橋は彼の数奇屋があったからの地名というお話は、以前はお茶をやる人の中ではよく知られた話ですが、最近の若い茶人は知らない方が多いようです。「有楽町で会いましょう」や、数寄屋橋が舞台の「君の名は」が忘れられた故か、この話は嘘だとする歴史学者が多い故かどうか、わかりませんが。
有楽斎の茶は「習いなきが習い」「原理は正確に教えるが、技は適宜に教える」というのが、趣旨だったと言われますが、その流儀は、一族で信長の孫、織田貞置(幕府旗本)によって伝えられ、貞置流とも呼ばれました。また、有楽斎の養子が尾張徳川家の家老になった縁で、中京地方に発展しました。江戸時代、関東にほとんど無縁ということでは宗和流と同じです。明治以降、特に流儀という形態もない状態でしたが、戦後になって、組織作りの中心の必要性からでしょう、有楽斎の子孫織田長繁が家元に担がれ、15代宗家を称しました。この代数は織田家としての数え方で茶家の数え方ではありません。有楽斎の子孫は大和芝村と大和柳本で、それぞれ一万石の大名として幕末を迎えますが、長繁は芝村の血統です。現在、名古屋で孫娘が17代を継いでいます。
実は私、有楽流に関しては苦い経験があります。昔、ある大寄せで、初めて有楽流の席に入り、正客として「お流儀のお家元は織田長繁さんとおっしゃいましたね」と、本で読んだ知識で挨拶したら、半東の女性が怖い顔で「こちらがお家元ですよ!」と、ご亭主の寡黙な老女を指差すではありませんか。絶句しましたが、東京にも有楽流があるんだと初めて知りました。その後、護国寺でもう一度、有楽流の席に入りましたが、怖くて「どちらの有楽流さん?」と訊ねられませんでした。調べてみたところ、東京には、練馬区に有楽流、武蔵野市に正伝有楽という流派があるようで、どちらも、織田長繁を擁立した上田宗福という茶人の系列のようです。分裂などの詳しい経緯は知りません。後者は柳本の家の子孫とコラボしているようです。
二回の経験では、大名茶らしい鷹揚さを感じるとか、点前の特徴とか、記憶に残っていません。わりと平易な道具とお点前だったようにも覚えますが。いつかまた、是非有楽流のお席に入ってみたいものです。
萍亭主