宗徧流は現在、不審庵だけではありません。宗徧流何々という流派が関東にはあと三つあります。

   一つは宗徧流時習軒です。この派は、宗徧の弟子岡村宗伯(本業は材木商)が名乗った号で、息子の宗恕(松恕、宝暦頃、江戸茶人の代表と言われた)が継いだ後、血統ではなく高弟に譲り継がれていきました。江戸時代、この派から一番多数の有名茶人が出ています。山田家を継いだ6代宗学も、この派の家元の弟子でした。明治20年、和菓子屋の榮太棲の娘が、家元の未亡人に見込まれ、8代時習軒を継ぎます。これが細田宗衛です。以後、現在まで細田家の血筋で受け継がれ、榮太棲の社長が11代を継ぎます。この流儀のお茶席に入ると、お菓子は当たり前ですが、榮太棲製です。

    宗徧の隠居後の号、四方庵(よほうあん)は菅沼常翁(三河新城藩主)に与えられ、その後、何度か中断しながら受け継がれ、明治期には5代代田宗真が活躍しました。その後も、高弟により指名制で受け継がれ、7代からは女性家元が続いています。現在9代、本拠が同じ鎌倉なので、不審庵に行くつもりでタクシーに乗って「宗徧流の道場」とだけ言ったら四方庵に連れて行かれたという笑い話を聞いたことがあります。

   宗徧の血筋を引く関口家不審庵の方は、中村宗知の死後、弟子の岩田宗栄が跡を継ぎます。宗栄は華道を修め、東池坊という流儀を明治末に創立していました。この宗栄の長男の嫁に、脇坂安斐の孫娘が嫁ぐ事になりました。

   脇坂安斐は、最後の播磨龍野藩主で子爵、父から宗徧流を学び、明治天皇に献茶を行うなど明治初期の茶の湯で活動しました。宗徧流のスポンサーとして、山田家や時習軒の諸家の相談に乗り援助しました。7代宗寿尼は臨終の時、安斐 に跡を託したとか、宗俊が死んでから孫の宗貞が継ぐまで安斐が家元を預かったとか、いろいろな説話があります。ともあれ、安斐の孫娘に宗徧流を継がせるという約束が、安斐、岩田宗栄、中村宗知の間で約束されていたそうで、彼女は宗龍と名乗り、12代家元となります。この派では、6代宗俊、7代を脇坂安斐、8代関口宗貞、9代関口宗理、10代中村宗知、11代岩田宗栄と算えます。以後岩田家が代々守り、現在、16代、華道の家元をずっと兼ねているのが最大の特徴です。一時、不審庵と合併していましたが、昭和53年再び独立、鎌倉円覚寺から正伝庵の号を得て、そう名乗っています。

   宗徧流の各派は、基本侘び茶の概念で繋がっているのだろうと思います。組織の大きさとしては、不審庵が飛び抜けていて、華道の家元を兼ねている正伝庵がそれに次ぐのでしょうか。また各派とも歳暮になると義士茶会を催す事は共通点のようで。

  さて、この宗徧流と同じくらい大きな流儀が大日本茶道学会ですが、その話は次回に。

         明日は、久しぶりにブログをお休みします

        萍亭主