大正12年、トルコから帰国していた山田寅次郎は、宗徧流の大同団結を呼びかけ、自分は不審庵8代、外学宗有と称します。時代は茶の湯の勃興期で、一般家庭の茶の湯流行が急速に進む時でした。他流の動向から見ても組織の中心点が欲しい、そういう思いもあったのでしょう、唐津、京都、東海地方、新潟など、宗徧流の伝来地域のほとんどが参加し、流儀の全国組織が出来上がりました。大同団結は成功したのです。山田家の後継者というブランドと寅次郎改め宗有の実業家として培った行動力、組織力が役立ったのでしょう。

   勿論、参加しない組織もあり、宗有が50代半ばまで茶の湯と無縁だったのに家元?と反発する声もありました。東京の有力な茶人で文筆家の川井穿波などは参加したものの後年まで無遠慮に宗有を批判しています。しかし、宗有は宗旦以来の教えを守る宗徧流の古格な侘び茶に、近代的な華やかさも加え(例えば宗徧流は棚物は利休時代のからの六種だけで流祖以来、新たな好みはしない決まりを変えて、種々の棚を好んだり)、拝見盆(拝見の時、道具を小さな盆に載せ廻す)の創案など大寄せ茶会中心の現代に相応しい、成程という工夫をしました。その他にも機関誌の発行や組織の整備、南禅寺との交友など、中興の祖と呼ぶに相応しい活躍しています。

  九十の長寿を保った宗有は昭和32年亡くなりますが、9代を長女に10代を長男に譲るという面白い遺言を残します。それで長女宗白がまず継ぎ、8年ほどで長男宗囲に譲ります。

 宗囲は後に流祖と同じ宗徧を名乗り、流儀を更に大きくしますが、 凄かったのは、京都にあった恵観山荘(江戸時代初期の関白一條昭良の茶屋)を京都西賀茂から移築したことです。移築後5年で重要文化財に指定されました。これで関東にも重要文化財の茶室が出来たわけです。以後、これが宗徧流の本席のようになりました。この茶室は、もともと金森宗和の好みとも言われ、私などは、ちょっと本来の宗徧の好みと違うんじゃないかと余計なことも考えたのですが。ご自慢の山荘は近年事情があって、宗徧流の手を離れ別の財団のものになっています。不審庵という三畳台目席(京都と同じ)が今の本席のようです。今の家元は11代幽々斎宗徧、ジーパンで茶の湯などの写真集を出したり、種々新しいことにトライしている、茶の湯の世界ではまだ若い方の家元です。

   ところで不審庵という庵号は、表千家と同じですよね。これは、宗徧が宗旦から、不審庵、今日庵両方の名前を譲られたからです。川井穿波の書いたもので読んだのですが、今日庵は宗徧から高弟鳥居宗逸へ譲られ、後に鳥居家から裏千家に返却された。不審庵は

返却をめぐり表千家随流斎宗佐との間に訴訟が起きたが、譲状の提示で宗徧が勝訴、後継の宗引に譲ったので、その後、表千家は不審庵という茶室はあっても庵号として箱書に不審とか不審主と書かないのだ、というのです。まあ裏千家は箱書に今日主などと書いたりしますが。本当の話かどうか、他で類似の説を読んだこともないので「?」ですが、穿波は故老ですから、噂にせよ訛伝にせよ、何かの根拠はあるのでしょう。

  今日はこの辺で。

      萍亭主