江戸に長い歴史を持つ流儀はもう一つあります。今は鎌倉に本拠がありますが、宗徧流不審庵がそれです。近年、三千家、藪内流、遠州流と並んで六家元と呼ばれたりする関東では大きな流儀です。

   ご承知と思いますが。流祖山田宗徧は、利休の孫である千宗旦の高弟で、宗旦四天王の筆頭です。宗旦の推挙で三河吉田(豊橋)城主小笠原家に茶頭として仕え、同家が岩槻にお国替えになった折に辞職し、元禄十年(1697)江戸本所二つ目(墨田区緑)に四方庵を構え、茶の湯を教えました。それはこれまで遠州、石州しかなかった江戸の茶の湯の世界に、初めて千家流が登場した画期的なことです。千家の茶人が江戸に来たのは宗徧が最初ではなく、裏千家の仙叟は若い頃就職運動に江戸に来ており、前田家に仕えてからも参勤交代のお供で来ていますが、一般に教える機会はありませんでした。

   宗徧は江戸で死去するまでの12年間、坂本周信、岡村松恕などの豪商の弟子を育て、近所の本所松坂町の吉良上野介との交友はあまりに有名です。宗徧の子孫は、同様に小笠原家に仕え、同家がその後、遠州掛川、陸奥棚倉、肥前唐津と移封する間も、大体江戸に住み活動しました。

   宗徧流は町人だけでなく、江戸城の坊主衆にも広まり、水谷義閑、平井善朴などが出、大名では脇坂安斐(播磨龍野藩主)、牧野忠精(越後長岡藩主)があり、また川上不白や小堀宗中と並んで有名だった神谷松見、東海地方に流派をひろめた不蔵庵龍渓などが幕末までに輩出しました。江戸では一定の勢力だったのです。しかし、それは山田家だけの力ではありませんでした。宗徧流は千家と違い、当時の石州流と同じ、完全相伝制をとりました。ご存知の方も多いでしょうが「完全相伝制」とは、故西山松之助教授が唱えた呼称で、血統にかかわらず奥義を完全に伝授された者は家元と同等の免状の授与権を持ち、一派を開ける制度です。これに対し、赤ちゃんで奥義を受け継いでいなくとも、嫡流の血統であれば家元を継ぐ、分派は認めないというのを非完全相伝制といいます。有力な宗匠が多かった宗徧流は、広がりも見せましたが、山田家が完全に中心の家元というわけでもなく、これが維新後に多少の混乱を呼びます。

   続きはまた次回に。

   萍亭主