遠州流が二百年近く、江戸東京にあるにもかかわらず、あまり関東っぽく思えないのは、流祖小堀遠州の綺麗寂びと呼ばれる茶風が、やはり京都の公家文化に通じる雅びさなしには語れない、そこが関東代表と思いにくいところなのかも。勿論、これは、いいとか悪いとかの問題ではありません。

   では、江戸らしいと言えば、そうです、その名も江戸千家、川上不白の系統ですね。川上不白が寛延元年(1750)、江戸に茶の湯を広めに来てから、二百七十年近く経ちます。不白の功績は言うまでもなく、江戸の社会に広く茶の湯を浸透させたこと。生前すでに一万の門弟がいたという話は、孫弟子まで数えてでしょうが、大名から町人まで層の広いことは驚きです。不白がいなかったら、江戸の末端まで茶の湯は広がらず、後年、膝栗毛の弥次さん喜多さんクラスは茶の湯体験はしはしなかったでしょう。

  しかし、不白は表千家如心斎の弟子として活動していたわけで、自分で江戸千家とは名乗らなかった。幕末の江戸茶人番付は、不白の弟子系で埋め尽くされていますが、肩書は皆「千家」だけで、江戸千家とはありません。思うに「江戸千家」の称は、自然発生的に一般の間で、京都と差別するために呼んだ他称で、自称ではなかったろうと思います。川上家が江戸千家を自称したのは、明治になってから、新しい社会秩序の中で、流儀を確立するためだったと思います。

   不白は当然自分を家元だとは思っていなかった、弟子たちも師匠と仰いでも家元とは思わなかったでしょう。不白には有能な弟子が多く、彼らはそれぞれ大名家の茶頭として仕えながら、江戸に不白の茶の湯を広めた、しかし、川上家を家元として組織を築くということはなく、それぞれが独立状態になります。川上家自体も幕末に、茶頭を勤めていた水野家の地元、紀州新宮に移り、明治10年代に池之端に新しい本拠を構えるまで江戸を離れていた。その間に茶の湯が衰退している東京で活動していたのは、不白の高弟川上宗什の子孫、川上宗順(今の表千家不白流の祖、当時江戸千家浜町派と呼ばれました)でした。宗順は、馬越化生(恵比寿麦酒社長)など多くの数寄者に教授しています。他にも石塚宗通など、不白の高弟それぞれの子孫が独自に活動していて、同じ根の不白の流れが大同団結して、大きな組織になることはなかったのです。

   不白は、高弟の何人かに、川上の姓を与えたようです。川上宗什、川上渭白、川上梅翁

など。「三千家は長男以外は千の姓を名乗らせない」という鉄則を作った如心斎の弟子とも思えぬ鷹揚さですね。

  江戸千家自体もその後分裂してしまうのですが。続きはまた。

       萍亭主