前回の続きですが、遠州流が、家元中心の流儀らしい組織になったのは、明治になってからのことです。それを応援した石黒况翁は、明治の数寄者の中では珍しい遠州流の茶人でした。茶人系譜では、小堀家九代宗本の弟子となっています。だとすると、幕末の頃から学んだということになります。ただ石黒の援助があっても、十代宗有の頃は、まだまだ出発点についた状態でした。明治末年に家元を継ぎ昭和37年まで半世紀以上活躍した十一代宗明が、全国的に組織をまとめ上げ、近代的な流儀の形にしたと言えます。宗明は、况翁の紹介もあり、大正昭和初期の茶の湯リーダーの数寄者たちに可愛がられ、その茶会にもしばしば列席しています。

  当時の数寄者たちの間では、利休、織部よりも小堀遠州の方が人気があったように思えます。人気は点前、作法というより道具の観点からでしょうか。もっとも数寄者たちが皆、遠州流に入門したわけではありません。当時の数寄者たちは流儀に殆どこだわっていません。三井泰山(守之助、永坂三井家当主、数寄者)などは、宗明と親交があり、遠州流のスポンサー格でしたが、茶人系譜では藪内流に属しています。

    昭和40年代以降の茶道隆盛期に、十二代宗慶が流儀を更に発展させ、自身も書や好みものなど多く、その展覧会があるなど、種々の活動がありました。この代に本拠地も戦後の信濃町から現在の若宮町に移りました。三畳台目下座床、回り茶道口で点前畳の後ろに鱗板(三角板)があり、給仕口が斜めについている成趣庵が本席だと聞きます。現在の宗実家元も多くの著書があり、なかなかの学者で、海外活動も盛んなようです。

  しかし、規模からいっても、まさに東京を代表する茶家の一つなのに、千家に比べると、今ひとつポピュラーでないという実感があります。何故でしょう?流儀内での茶会や催しは知りませんが、外部への広がりがあまり見えない。例えば、私の地域の茶道連盟には遠州流の方は一人もおられない。

  「遠州さんは上流階級の門人が多くて、そういう人たちは趣味にとどまって、教えようとか弟子をとるとかしない、だから社中がなく、茶会を外でする人が少ない」とは、ある知人の言葉ですが、これが本当かどうか、都市伝説かもしれませんが。ただ、宗明宗匠の活動期から、実業家など上流階級との交際中心に広がったことは確かなようです。

  妄言多謝、また敬称を一切略させて頂いたことをお詫びします。

    萍亭主