先回あげた、京都、東京、関東の流派41の内、数えてみると、私は玉川遠州流、石州流怡渓派、同伊佐派、石州清水流、御所流、壺月遠州流、遠州流林義朴派、細川三斎流、織部流を除く32の流派のお茶会(茶席)に入ったことがあります。私はそんなに茶会に行く方ではないのですが、長生きのおかげでしょうか。でも、大半の流儀が一、二回の経験で、しかも茶会の殆どが大寄せ茶会ですから、とてもその流派の本質や、特徴が把握出来はしません。そんな私がブログで云々するのは、恐れ多いとも思いますが、ご容赦を。

   京都の家元に比べて、どうも東京の家元は存在感が薄いのは何故でしょう?勿論、その流儀内の人にとっては、その家元の存在は大きいでしょうが、流儀以外の人にとっての存在感はどうでしょう。京都、特に千家のような社会的存在感が少ない。

   もう一つ、規模が小さく、所謂、小流派(失礼ですが)が、大半で、戦後創流、あるいは再興の流派も多く、歴史が浅い。江戸東京という地元に根を張った感が薄いのです。

 昭和初期に数寄者たちのリーダーシップによる茶の湯は、家元中心の茶の湯に変わっていった、交通網と通信網の発達が、家元の地方への広がり、組織の整備充実を助け、特に千家の急速な発展が全国に浸透して、東京もその波に呑み込まれたとも言えます。

  さて、最近、武家茶道という言葉をよく聞きます。 遠州流がその筆頭格ですね。しかし、この言葉は千家派と差別するため、近年作られた言葉では。千家も武家と深いつながりがありますし、遠州流や石州流も町人と無縁でもありません。

  それはさておき、遠州流の流祖小堀遠州が打ち立てた綺麗寂びの茶風、その功績はどなたもご存知、彼の足跡は江戸にも沢山残っています。思えば、江戸に茶の湯文化を持ち込んだのは古田織部に続いては遠州で、いわばパイオニアだったんですね。でも小堀家は大名だったため、遠州の子孫は個人的には茶人でも、茶の湯の指導者にはなりませんでした。小堀家が天明年間に大名の位置を失い、文政年間、わずか三百俵の御家人として召し出され家を復興した八代小堀宗中がらが、江戸永住の茶の家になったと言えます。宗中は優れた茶人として、大勢の弟子も育て、ある先生は「江戸の茶の湯を語る時、川上不白と小堀宗中は欠かせない」と言われています。江戸茶人番付に時別な地位の行司役として載るように、茶人として世間から見られていたことは確かですが、幕臣ではあり、家元という感じではありません。小堀家が茶家として成立したのは、維新後、十代宗有が、石黒况翁(数寄者、軍医総監)の勧めで、家元として活動を始めた時からです。

   ちょっと長くなりました。次回に続きを。

          萍亭主