「在釜」という言葉、少なくとも関東では死語では?と言いましたが、釜という字のつく言葉では、これこそ、死語なんじゃないでしょうか。それは「常釜」。「じょうがま」と読むそうです。

  つまり、自分の家で常に釜を掛けて、客を待つ、客が有ろうと無かろうと、松風の音を絶やさないというんですね。真の茶人とは、百回以上の茶事の亭主をするか、常釜を掛けるかだという説があるそうで、利休も常釜を掛けることを茶人のたしなみとして指摘していた、弟子と花見だかに出かけた時、今朝釜を掛けて来たかと尋ね、用意しなかったというと、帰宅して準備することを薦めたという話を読んだ記憶があります。

    忙しいお茶の先生で毎日稽古場に釜が掛かっているという例なら、家元の道場なども含めてあるでしょうが、それは常釜とは呼ばない、あくまで、客を想定して季節に応じたしつらえで釜を掛けねばならない。しかし、これは大変なことですよね、おちおち外出も出来ない、家族がいなけりゃ無理、留守中の火の用心は、などと私はすぐ余計なことを考えてしまうんですが。

  でも、ある記録によれば、大正時代から昭和戦前まで、常釜を実行している人が存在したそうです。もっとも、流石にその数は、京都で五指に満たなかったということですが。真の茶人になるのも大変ですね。今日の無駄話はこの辺で。

     萍亭主