バチカンの声が聞こえる。

キリスト教の神学や歴史に関する知識はそこまでないので、詳細を見て感動することは期待していなかった。
その場に立って、受ける「印象」を楽しみにしていた。

サン・ピエトロ寺院ではスケールやディテールに圧倒され、インパクトは大きく、キリスト教の一つの集大成を見た気がした。

その後行った、システナ礼拝堂ではとりつかれるように居座った。
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礼拝堂への廊下を飾る金の天井と無数の絵画。すべては神を讃える一心で作られてきたものだ。キリスト教がひたすら一つのものを愛してきた歴史を痛烈に感じて、身が震える。

今までキリスト教はその目に見える聖者やイエス像などから、かなり唯物的で偶像的な宗教だと思ってきたが、ここまで徹底した装飾美や建築美や色彩美を魅せられると、人々がどれほどイエスや神を愛し、数千年にかけて投入してきたのかがわかった 。壁画一つ一つに、その精誠が確認できたからだ。
知らなかった。。
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人々が集まっていた壁画がある礼拝堂で、1時間ほど壁にもたれかかってずっと上を見ていた。頭の中ではviva la vidaが何度も強く流れている。

この歌は「かつては世界を支配していたが、時を経て力を失ったキリスト教の悩みを歌った」歌のような気がします。

歴史を通して変遷を繰り返しながら分派し影響力を失っていくキリスト教の未来を憂う声を聞いた気がした。


バチカンミュージアムの螺旋階段
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雲無い青い空のした、眩しい太陽に照らされて、その巨大な寺院は据わっていた。

神聖な歴史の前で、親の前で礼儀をわきまえずじゃれ合う子供のように、人々は戯れている。
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路上でさまようジプシーやランダムな中東の出店や、過度のセキュリティチェック、何かにつけてシャッターを切る光景なんかが、なにとなく神聖な雰囲気に垢を塗っていた。
そんな光景さえバチカンに包みこまれているのか。

30分ほどセキュリティチェックのため列に並び、サン・ピエトロ寺院に入った。
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中は一面、金色が散りばめられていて、ドームの窓から入り込む光が神々しく輝いている。
その規模と繊細さ、美しさはめくるめくものがあった。細部まで妥協なく作り込まれている。

そんな風に圧倒されながら、ひとひとと歩いていると、荘厳な雰囲気とは別種の、雑多な空気を感じた。
絶え間ないフラッシュとピースサインや、重なる会話の声など。
どこの観光地でもよく見る光景。

すぐそばでは礼拝室で真剣に祈りを捧げている人々もいる。

違和感のあるコントラスト。

見方、味わい方、楽しみ方は人それぞれ。

ベルニーニやミケランジェロ、ラフェエロ、レオナルドなど稀なる天才たちが数千年の命運をかけてバチカンに築いた神殿は、いまでも人々を照らしているのか。

ドーム頂上からのバチカンとローマ
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フランスの田舎道をドライブした時のこと。

午後4時前、日が傾きはじめ、少しずつ景色が赤みを帯びていく。

広大な丘陵地帯をゆっくり上下しながら進んで行く。

視界を遮るものは無い。

果てしなく続いて行く道の先に、太陽と雲が浮かんでいて、光と影をつくっている。

その「果て」をじっくり見つめながら、今いる瞬間をできるだけ感じようとしていた。
意識の底にある心地よい場所をさがすように。

感情や、景色、時間、匂い、気湿で、記憶への残り方がまったく変わってくる。