人と人とがつながること | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

「6次の隔たり」という言葉がある。それは、人は自分の知り合いを6人以上介すと世界中の人々と間接的な知り合いになることができる、という仮説であるのだそうだ。確かに、新しく人と知り合った際に、実は共通の知人がいることがわかって「世間は狭いものだ」と驚くことはしばしばある。


では、人々が友だちと友だちを繋いでいけば、簡単に世界中の人々が繋がるのではないか。そうして、ジョン・レノンが歌うように、あらゆる人が平和のうちに自他の別なく助け合って暮らす世の中が実現できるのではないだろうか。世界中の人々といえば莫大な数であるが、同時にミクロには、それはたった6人をひとつなぎにするだけの話なのだ。

しかし、ジョンが「イマジン」を歌ってから40余年、一向に愛と平和の世界が実現される様子がない。あらゆる人が友だちであるような牧歌的な世界をつくることができるなら、その方が良いに決まっている。それは誰でもが願うであろうシンプルで徹底された理想であるのにしかし真剣にその実現の方途を検討している国家指導者は世界に一人もいないだろう。それはなぜなのだろうか。友だちを作ることは、幼児でさえ日常的に行っているごくあたりまえのことである一方で、各国の代表として選ばれた一握りの優秀な大人にも困難であると考えられている。普遍的な正しさをもつ思考のはずが、いざ要求されれば、それについて人々は口を噤み、煙たがるが、その「困難さ」は一体どこからやってくるのか。

結論からいえば、それは、人と人が(幼児がそうするように)「裸のまま」で水平の関係のうちに相対することをせず、互いに出会う前の「同一性」(たとえば「肩書き」)のもとに、向き合うからである。

まずは、「同一性」の原理を説明しよう。人間のみならず、あらゆる生命は例外なくある絶対的な法則に従って存在している。熱力学第二法則、エントロピー増大則である。端的に言えば、永久機関は不可能であるということ、系のエントロピーすなわち「乱雑さ」は不可逆に増大する傾向にあるということである。あらゆるシステムは外界から閉鎖的に自立できないし、つねに増大する乱雑さを汲み出し、秩序性を取り込み続けなければならないということである。

生命システムも同様である。生命は異化と同化から成る代謝から自由になることができない。

私の存在のうちから私らしくない要素を汲み出し、私らしい要素を汲み入れつづける絶えず崩れ去りつつある秩序こそが生命である。

生命は中心的同一性の拡大を求め続ける運動、エゴイズムである。だからこそ、捕食が不可欠であって、そのための競争に勝ち続けなければならない。弱い他の存在を押しのけ飲み込んで競争に打ち勝ち、自分の存在を拡大していくこと、つまりそれぞれの自己実現がすべての存在の関係性を規定している。弱肉強食、適者生存の原理の貫徹するところが自然状態である。

しかし人間は、そうした中心的同一性拡大原理から踏み外してしまっている例外的な瞬間をもつことがある。

『創世記』において、神ヤハウェはエデンの園に最初の人を据えたあと、彼と向き合うような助け手となることを期待して、あらゆる獣と鳥をかたちづくり与えたが、人には彼と向き合うような助け手はみつからない。そこで、人の肋骨から女をつくる。鳥や獣ではなく、同じ人間だけが人間と向かい合う助け手となることができる、という認識がそこにはある。人間は同じ人間を求める。その相手は自分と同じ高さに立つ、鏡像のように「対」となる存在である。

鳥や獣は、最初の人が自由に考えて、次々にその名前を付けていく。名前を付けるというのは、相手の存在をその名前のもとに固定するということを意味する。同一性は存在に社会的な、通時的な確かさを与えるのと引き換えに、性質的規定という枷をかける。名付けという行為は同一性の規定であり支配関係の立ち上げに他ならないのである。名付けられたものは名付けたものによる「所有」という関係性に縛り付けられる。所有されるものは所有者にとって処分することの可能な「私物」であり都合の良い「手段」であり便利な「道具」である。そこには立場の高低差が生じている。一般に、ペットは人間のよいパートナーとなるが、しかし、ペットが人間と真に向かい合う相手とはならない。高さが異なるからである。

『創世記』においても、二人目の人だけは最初の人による自由な「名付け」がなされない。名においても肋骨と同様に、夫イーシュという自らの名から、妻イッシャーと音を分け与えるのである。名前の相同性からもわかるように両者は水平的な関係にある。同じ高さに位置する者同士においては、支配関係は成立しない。互いが互いに対して自由である。支配関係にない者同士は互いに相手を拒絶・否定することができ、拒絶・否定できる関係性にある相手は、とても恐ろしい。ままならないからだ。けれども、そんな自由な相手との間においてしか真の「愛」は発生しない。私のことを拒絶・否定する人間は、私から遠い距離をとる存在であり、相手の心中を覗くことができない。どういうことを考えているのかわからないから知りたい、自分のことを認めてほしい、肯定してほしい。私は、「あなたの欲望しているもの」が、「私によって欲望されること」であることを願う。


自由に友だちを作る子どもたちは、最初の人たちのように、中心的同一性としての所有という関係を越えた、水平の関係を立ち上げているのである。肩書きのもとに所有的関係をしか取り結ぶ事が出来ないのは、人間だけがもつ例外的関係性を忘れた動物的なふるまいであり、一種の「先祖がえり」である。たとえば『ロミオとジュリエット』においてロミオたちが悲劇的な結末に至るのも、彼らが競争的な関係にある「家」に属しているという「肩書き」から自由になれないからだ。

私たちは、就職活動において、選択的に「肩書き」を身につけることもあるが、肩書きはいつかその人自身と癒着して外すことができなくなってしまう。「分を弁える」とか「空気を読む」というのは、周囲の期待に応えて、肩書きに相応しいふるまいを選択し、肩書きの維持・再生産を行うことであるけれども、その圧力は、しばしば、人間の自由を強く制限する。

私はなにもあらゆる同一性の撤廃を要求しているのではない。同一性が、人を守る盾やシェルターとして機能することもあるだろうし、近代的法治国家の前提である「責任」が、その帰属する先である同一性なくしては成立しないという一事を以てすれば、その意義の確認は十分だろう。しかし、一方で、人間の尊厳が住み働くのは、やはり人と人が水平的に一対一で向き合うところだろうと思う。例外的なその瞬間に、極限に孤独な人間の魂が連帯と協働へと向かう可能性を感じるのは、決して私だけの錯覚では、ないだろう。