谷崎潤一郎『途上』
大正二年(三月?)大学卒業
同九月T・M社入社
同十月先妻筆子と結婚
大正六年十月重いパラチブス
大正七年正月風邪をひき五、六日寝込む
同七月一度腹下し
同八月二度腹下し
同十月軽い流行性感冒
大正八年正月流行性感冒、肺炎併発のため危篤
同二月末窒息事件
衝突事件
同四月筆子、チブスにて死去
病気に感染するかもしれない危険、偶然
衝突事故にあうかもしれない危険、偶然
→よくわからない
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なぜ後出しじゃんけんはダサいのか
状況のうちでつかむこと、その誤まるかもしれないけど、その場でなされる発言になにかかけがえのないものがあるからだ
すべてがおわったあとで、絶対に間違えない「正しい言葉」をいうことの、対照をなす
p171
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喪の仕事
『夏雪ランデブー』
正常な生活態度からのはなはだしい逸脱
苦痛に満ちた気分
自尊感情の障碍
外的世界への関心の喪失、故人を思い起こさせるものでない限り
なんらかの新しい愛情対象を選ぶ能力の喪失、悼まれている人物の代替物を得ることを意味する
故人の追憶と結びつかない何事の実行にも背を向けること
自我の制止と制限はひたすら喪に没入していることの表れである
喪の気分は痛い
現実吟味が愛された対象はもはや現存しないことを示す
もう「吹っ切る」「忘れる」ようにしなさいと催告を公布する
たとえ代替物が(たとえば次の男が)すでにそのひとをまちうけているとしても
現実からの背反と対象への固執
現実に対する尊重が勝利を保つが、現実による指図は即座には実現しない
「時間が薬になる」
そのあいだ、失われた対象の存在は心的に維持される
どうして現実の命令をつぶさに遂行するという妥協の実行が(もう忘れろよ)
それほどに途方もない苦痛を伴うのか、いまだに簡単に説明できない
奇妙であるけれど、この苦痛に満ちた不快は当然のことのように思われる
でもでも、そのうち自我は喪の作業が完了した後、ふたたび自由で制止を免れた状態に戻る
自我を消尽する喪の作業によって制止と関心の喪失はあますところなく解明される
世界が貧しく空虚になる
現実吟味の命令をつぶさに遂行するためには時間が必要とされ、その作業が済んだ後に自我はリビードを失われた対象から自由にしてもらえた
リビードが失われた対象に結び付けられていることを示す想起や期待の状況の一つ一つに現実が介入し
それらのすべてに対象はもはや存在しないという評決を周知徹底させる
すると自我はいわば汝はこの運命を共にすることを欲するやという問いに直面させられ、そして生きていることから受け取るナルシス的な満足の総計を考慮に入れて、無に帰した対象への自らの拘束を解除するという結論を甘んじて受け入れる
わたしたちは例えば次のように想像できる
すなわち、この解除は、非常に緩慢に一歩一歩進展するのでその作業が終了した時にはそのために必要とされた費用もまた散逸してしまっている、と
喪は、対象の死を宣告し、生き残るという報奨を自我に差し出すことによって、自我をして対象を断念する気にならしめる。
愛の両価性(愛憎)