演じる意識と倫理 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

人間が一人では生きられないことはわかった。
では、二人では生きられないだろうか。やはり生きられない。
人間を真に人間たらしめるのは、第三者である。
やはり浪人経験から考える。「肩書き」という従属関係を嫌った私の生は意味的な拡散をしていった。誰にも顧みられることのない卑小な存在としての自己のありかたは、肥大した自意

識とのあいだに壮絶なギャップを形成していた。社会的な生を生きる人々の「欺瞞の根拠」に満ちた存在を私は妬んでいた。
私の孤独で矮小で貧困でねじまがった生の在り方は、自分で自分の生を意味の覆いなしに端的に肯定しようというふるまい、換言すればナルシシズムである。
自分で自分の鏡像を愛するという方法に欠けているのは、想像の及ばない異質な他者性である。
自分のことはおおむね知っている、どういう過去を持っていて、どういう現在を生きているのか、知っている。
これからさきも、自分一人でいたら、どのように変化していくのか十分に想像ができる。
プライドばかり高く偉そうで退屈で孤独な天狗のような人間になっていくだろう。
そういう未来が楽しそうには思われなかった。
私は、明日、自分がどういうことをするであろうか、どういう能力を発揮し、どういう存在へと変化していくか、知りたくなかった。
未来の未知性に、可塑性に、他者性に、悲壮なくらいの期待を投げかけていた。
想像の及ばないわけのわからない異質な他者の存在は、私を生かす不可欠の条件であるということを骨身に滲みて理解した。
生の賭博性、偶然性、自由は、一種の劇薬ではあるが、しかし、それを抜かしては生きていけない重要な条件である。
他者の承認を求めて、肩書きや意味の相互作用する社会的関係性のうちで生きていくことは、他者のまなざしの前に立つことである。それは、自分の存在の在り方の解釈を他者に認める

ことを意味する。
それは一切の社会的紐帯を失って私が軽蔑するようになった人々、上司や教授や先輩に嫌われないように太鼓持ちをしてこびへつらい気味の悪い笑みを顔にこびりつかせた米つきバッタ

のような奴隷人間たちの生き方に接近することに他ならない。
私はレールの上から踏み外さないようにして自己自身を社会の歯車として「何不自由のない生活」を送る普通の人がいちばん嫌いである。
だから、自覚を持って、敢えて他者のまなざしの前に進み出る「意思」が重要である。
私たちは自分の存在が他者のまなざしの前で様々な像となって現れることを止められない。だからこそ、虚像を敢えて引き受けなくてはならない。
それが演じるという存在の在り方である。
演じている自覚が抜けてしまわないように、つねにどこか、役に乗り切ることができずに醒めて白けていなければならない。
それは、その役割が自分の存在にとって非本来的であるという意識を持ち、「代理人」としてその場に立っていると考えることではないだろうか。
代理人は、本人ではない。
両者の間にはずれがある。
代わりに成し遂げるということが成立している。
代理人としてのずれを感じることなく当事者としてふるまう人間は、役割演技であるという意識を持たずベタに組織内の「立場」や「肩書き」に没入してしまう人間は、社会体制内部の

共犯的相互依存関係にもたれかかった無反省で不自由で非倫理的な人間である。
芥川は潔癖だった。
美を極限の乱調に求めた結果、生を完全に拡散してしまった。
我々は異質な第三者と共に、まなざしの交差する意味づけの闘争の渦中に、評価の地獄に、社会的存在として生きねばならない。
私たちは様々に不愉快な人間と出会う。けれどもそんな不愉快な隣人と共生できる成熟した人間がわずか存在する。共生とは妥協を意味するものではない。妥協は、現在の状況を規定す

る条件がなければもっとうまく行っただろうに、という期待に基づく意識であるが、期待は取らぬ狸の皮算用なのであって、現実ではなく幻想にすぎない。共生は現実から目を背けない

。はじめから他者の方を向く。私たちはたとえば芥川と共に乱調の美を垣間見た経験を持っている。
その経験が私たちに、他者のまなざしのうちにある現在の自分の像がうつろな幻想に過ぎないことをきりきりとした痛みとともに思い起こさせる。
我々は自分の虚像に安住してはいけない。今あるこの在り方は私の「真の素顔」ではなく引き受けた「仮面」にすぎない。
懸命に演技を続けるが、意識はどこかでそっぽを向いている。
その役割が絶対のものではないことを忘れることはないし、いつもどこかに「そんなの知らないよ」という無責任な声の響くところを残している。
我々はロボットのように組織の建前や公式見解を無批判に前提化・内面化した上意下達型の思考停止人間を警戒しなければならない。
それはどんな場面においてもわれわれの想像力を殺し、状況への加担を迫る罠として機能する。

真の自由を、美を、追求する可能性を決して手放してはいけない。
現実は、すでに動かすことのできない所与として存在するのみならず、作り上げられるべき柔らかい豊かな資源として私たちを魅惑している。

私たちはさまざまな「仮面」を被り、つぎつぎに役柄を演じ分けながら進んでゆくことができる。
まだ見ない物語文脈における私が私を生かしてくれるだろう。