私たちは自分の生に自分自身によって意味を与えてやることができない。
それはなぜだろうか。
それは、人間の生が、そして意味というものが、そのように構造化されているからだ。
人間の生とはなんだろうか。
そして意味とはなんだろうか。
人間は一人では生きることができない。。「ひとのあいだ」と書いてニンゲンと読むことに端的に現れているように、複数的存在・集団性・共同性をその本質とする。しかし人間はなぜ一人では生きられないのだろうか。無人島に漂着したロビンソン・クルーソーは一人で逞しく生き延びたのではなかったか。
ロビンソン・クルーソーもまた、人間的な生を送らざるを得なかった。
無人島であるならば、まさに「傍若無人」に、好き勝手にふるまうことができるではないか。
最低限生きられるための水や食料や寝床を確保したら、あとは来る日も来る日もぐうたらと寝て過ごすこともできる。
しかしロビンソンはそうはしない。
あくまで人間的な生活をつづけ、近代文明人的なエートスを手放さないのである。
ロビンソンは行動によって示すのである。
「人間は動物ではない」
では、人間とはなんであるか。
人間を人間たらしめる人間の条件とはなんだろうか。
まずあらゆる生命を貫く絶対的な法則がある。熱力学第二法則、エントロピー増大則である。端的に言えば、永久機関は不可能であるということ、系のエントロピーすなわち「乱雑さ」は不可逆に増大する傾向にあるということである。
あらゆるシステムは外界から閉鎖的に自立できないし、つねに乱雑さを汲み出し、秩序性を取り込み続けなければならないということである。
生命システムも同様である。
生命は代謝から自由になることができない。代謝は異化と同化から成る。
私の存在のうちから私らしくない要素を汲み出し、私らしい要素を汲み入れつづける絶えず崩れ去りつつある秩序こそが生命である。
生命は中心的同一性の拡大を求め続ける運動、エゴイズムである。だからこそ、捕食が不可欠であって、そのための競争に勝ち続けなければならない。
弱い他の存在を押しのけて飲み込んで競争に打ち勝ち自分の存在を拡大していくこと、それぞれの自己実現がすべての存在の関係性を規定している。
弱肉強食、適者生存の原理の貫徹するところが自然状態である。
人間はそうした自然的存在から踏み外してしまっている例外的な生命である。
『創世記』において、神ヤハウェはエデンの園に最初の人を据えたあと、彼と向き合うような助け手となることを期待して、あらゆる獣と鳥をかたちづくり与えたが、人には彼と向き合うような助け手はみつからない。そこで、人の肋骨から女をつくる。鳥や獣ではなく、同じ人間だけが人間と向かい合う助け手となることができる、という認識がそこにはある。
どういうことか。
人間は同じ人間を求める。
その相手は自分と同じ高さに立つ、鏡像のように「対」となる存在である。
鳥や獣は、最初の人がその名前を付けてやる。
名前を付けるというのは、その人の存在をその名前のもとに固定するということを意味する。
同一性は存在に社会的な、通時的な確かさを与えるのと引き換えに、性質的規定という枷をかける。
名付けという行為は同一性の規定であり支配関係の立ち上げに他ならないのである。
名付けられたものは名付けたものによる「所有」という関係性に縛り付けられる。
所有されるものは所有者にとって処分することの可能な「私物」であり都合の良い「手段」であり便利な「道具」である。
そこには立場の高低差が生じている。
一般に、ペットは人間のよいパートナーとなるが、しかし、ペットが人間と真に向かい合う相手とはならない。
高さが異なるからである。
『創世記』においても、エデンの園に居るうちは、二人目の人だけは最初の人による「名付け」がなされない。
神ヤハウェが、夫イーシュと、妻イッシャーと名付けるのである。
名前の相同性からもわかるように両者は水平的な関係にある。
同じ高さに位置する者同士においては、支配関係は成立しない。互いが互いに対して自由である。
支配関係にない者同士は互いに相手を拒絶・否定することができる。
拒絶・否定できる関係性にある相手は、とても恐ろしい。
ままならないからだ。
けれども、そういう自由な相手との間においてしか真の「愛」は発生しない。
私のことを拒絶・否定する人間は、私から遠い、距離をとる存在である。
相手の心の中が見えない。
どういうことを考えているのかわからない。
どういうことを考えているのか知りたい、自分のことを認めてほしい、肯定してほしい。
私は、「あなたの欲望しているもの」が、「私によって欲望されること」であることを願う。
意味とは何か。
こんな話がある。
昔、二人の画家がいた。
二人は互いに、自分のほうが絵の腕前が上であると主張した。
そこで一枚ずつ絵を描いて勝負することにした。
いよいよ描き上げた絵を発表しあうときがきた。
一人目の画家が、キャンバスの覆いをとった。
見事な静物画であった。
果物のみずみずしさに、相手の画家は思わず唾をのんだ。
「どうした、怖気づいたか、今度はお前の絵を見せてみろ。早くその覆いを取れ」
結果は静物画を描いた画家の負けであった。
相手の画家が描いたのは、「覆いの絵」であったから。
意味というものはこれに似ている。
意味はそれ自体が、偶然の事物の存在に必然的な意味のないことを隠す覆いとして機能している。
「沈黙交易」は、複数の共同体の双方が接触をせずに交互に品物をおき、コミュニケーションを行うことなくゆるやかに交換が成立する交易を指す。
それは交換経済活動でありながら、等価交換ではない。
なぜなら、交易相手との間に共通の価値基準が存在しないからである。
しかし、当事者たちはその交換に満足する。
交換された「それ」がどんな価値を持つ品物であるのかは想像の域の全く外であってわからないが、交換されるべきなにかしらの「価値」があるという信憑をもつからである。
タモリはインチキ外国語というアングラ芸をもっているが、これが芸として成立するのもまさに意味の構造のためである。
意味とは、それが何かを意味しているという無根拠な信憑が先に到来する経験である。
幼児における言語能力の習得を想起してみよ。
人間が自分の生に自分自身で意味を与えてやることができないことがわかった。