130308 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

時代がうねっちゃったのでもうどうにも止まらないです

応答しかねまーす


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まず、Sugimoto=Morita(以下スギモリ)の「学生運動なう(?)」を読んだ

経験が言語化される感じって楽しいよね


そして、生きている者たちは、自分自身と事態を根本的に変革し、今までになかったものを創造する仕事に携わっているように見えるちょうどそのとき、まさにそのような革命的危機の時期に、不安そうに過去の亡霊を呼び出して自分たちの役に立てようとし、その名前、鬨の声、衣装を借用して、これらの由緒ある衣装に身を包み、借り物の言葉で、新しい世界史的場面を演じようとするのである。


これ、なんとなく読んだことあったけど、今読むと刺さるな


シーザーは「運命」のような重力みたいなものに吸い寄せられていく

それは、自己自身を歴史的主体として措定することに由来している

「おれが最期にみせるのは代々受け継いだ未来にたくすツェぺリ魂だ!」

今見せつつある、「未来に託す」というすでに受け継いだ魂

未来へと向けて語りだされつつある過去


これが語る経験の条件だということだ

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

語ることの困難


「拒否と自律性」

生きる力とは、何でも食べられること、どこでも寝られること、誰とでも仲良くなれることか

「群れと親密性」

特異性と依存性か

人間と共同的なものとの関係を考える

「偶然と賭博性」

賭けは負けるか勝つか分らない

シャンス・アレア

可能性とは可塑性であり可誤性であり可傷性である

「ぱっとしない自分自身との和解」ということも近い問題だと思う

サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の終末部分において、雨に打たれるフィービーを見て救われたような気持になるホールデン

CLANNADの小さな手のひらという曲も聴いてみて欲しいね


遠くで遠くで揺れてる稲穂の海
帆を上げ帆を上げ目指した思い出と
僕らは今日までの悲しいこと全部覚えてるか、忘れたか


Key三部作では何が問題であったかというと不可能性、敗北ということだと思う

まず以って原作ちゃんとやってないのでえらそうなこと書けないですが

あずまんの評論も読んだ

ぼくが浪人経験から得た最大の教訓は、「負けることを考えない人間は、弱い」ということだ

例えば、旧日本軍は弱かった

負けることと負うこと


人間は弱い、弱いから間違う、間違っているから弱い

弱いことは決して正しくない

「収奪されている人」はちっとも正しくない

そのつど「収奪している人」が間違っていることはある


悪は悪を見つめるまさにそのまなざしに宿っている

歴史は悪だ

悪で何が悪い