早大斗争の前提 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

「早大闘争の主体」というものがどこかにいるのだろうか?

ぼくがどうするかということだけが問題だ


「学生」から「市民」へ――ゆとり全共闘批判あるいは今日の「学生」運動の不可能性について

http://touzensekai.blogspot.jp/2013/01/blog-post_27.html


  だがゆとり全共闘の行動的批評(あるいは批評的行動)が端的に言って、「普通の学生」には理解し難いものであったのも否定できないところである。ぼくは各大学の運動の担い手達個々人の「センス」を批判したいのではない。決して、そうではない。そうではなくて、むしろ担い手個々人の責任など問うことができないよう巨大な断絶がゆとり全共闘の活動家と 「普通の学生」の間にあるということが言いたいのだ。ゆとり全共闘の活動家達が活動家となったのは、ぼくは断言するが、大学生として合理的決断の結果ではないだろう。彼等が大学生としての合理性を越えることができた原動力が何であるかは彼等の個人史に属することであるから、神ではないぼくはここに書くことができない。しかし、とにかくそれは「普通の」事態ではない。大学生という属性を持った人間が合理的に振る舞おうとすれば、言い換えれば「普通の大学生」がその属性に忠実であろうとすれば活動家に対して敵対的であらざるをえない。何故なら彼等は企業戦士として自己を鍛錬せざるをえないからであり、大学の企業戦士育成機関化を肯定せざるをえないから。ゆとり全共闘が「2011年学生運動の失敗」などと題した生放送をしなくてはならない悲劇の原因はここにある。彼等は大学生の属性から導きだされることとして、大学生として当然のこととして、現状の大学の在り方に対して批判を行い、可能なる別世界を大学生という属性を持つ者達に提示した。しかし、今日のように、企業戦士育成機関化がほとんど完成した大学の学生達が自らの属性に忠実であろ うとすれば、彼等の属する現行秩序の中で合理的に振る舞おうとすれば、活動家を黙殺し、嘲笑しなくてはならないのである。


ぼくもTZに賛成だ

ただ、「普通の学生」の内的合理性はまたべつに丁寧に分析する必要があるとおもう

(ぼくは各大学当局と資本の間には(多少とはいえ)断絶があると考える)


学生たちは「大学人の本義」なんてとうに忘れ去っている

あの「窓を持たない単子」は、「ただのバカ」である

端的に言えば、バカには言ってもわからない

説明しなくてはわからないということは、説明してもわからないということだ


もちろん、たしかに、説明しようという努力は続けるべきであるし、言説を構築して仲間を増やしていくという民主主義の王道は維持すべきであると思う

だから、ここで本音と建前が分裂することになる


原発について考えてみよう

「原子力の平和利用」というのはお題目で、ホンネのところは「核武装によって普通の国になること」だ

(少なくとも、原発の導入に尽力した中曽根康弘と正力松太郎はそう考えたろう)
ちなみに、原発の場合にも、抑圧が働いている

なぜ本音を隠さなきゃいけないのか

誰から隠すのか

日本国民?いや、米国である

核武装だけではまだ日本は「普通の国」ではない

対米独立を果たさなければならない

また、核武装というのはただもっていればいいわけではない

安全装置の働いている(ことがわかっている)銃を人に向けても抑止力は発生しない

銃はいざというときにほんとうに撃つことができるのでなければ抑止力をもたない

核がほんとうに使われるというのはどこに落とすのか

対米独立と核武装の交点は、米国に核爆弾のお返しをすることである

中曽根と正力は米国の息がかかっていたかもしれないが、さらにそのもう一枚むこうに隠された欲望は、対米原子力爆弾である

と、思ったので書いてみた

閑話休題


べつの目的を設定することでその目的の達成としての合理性正当性のもとに学生を組織すればよい

「大学の本義」の回復というすこし遠い理念は理解できなくても、そのつどの小さな目的ならわかるだろう

わかりづらいのであらためて整理する
.01「普通の学生」から乖離した表向きの学生運動体(サークル?セクト?それともべつのものか)
02大学闘争の達成に資するという本音を隠した、そのつどの建前を持つさまざまな活動

02のそれぞれを組み立てることで01をすすめる、最終的には01の目的を達成する

爆弾をつくるときに、公安にマークされないようべつべつの目的の下材料を買い集め組み立てることと同じだ


ところで、ぼくの場合における米国の位置を占めるのはなんだろう?

もう一枚むこうがわの欲望はなんだろう?

ぼくが隠したいのはもしかして、第三者の審級としてのゆと全それじたいからなんじゃないか

01をより上位の目的として、02のそれぞれを具体的に実行すると説明した

でも、本音と建前の二階建て構造が崩落して、一階部分の建前活動だけが残るという結末もありうる

たんにサークル活動をしたり映画みたり鍋会しているだけなのに学生運動をしているかのように見せるというアリバイづくりなのかもしれない

学生運動という「当為」から逃走する疚しさを抑圧するための、自分自身をだまそうという計画なのかもしれない


やうちくんのゆと全批判と、すがやさんの論駁はまだ読んでないのであとで読みます