だぶん | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

従兄の結婚式で、神戸に行ってきた。

三人兄姉弟の末っ子で僕の五歳上であり、小さいころにはよく遊んでもらったものだ。

これで三兄姉弟がみんな結婚したが、結婚という関係性が人間にとってなんであるか、まだわからない。

ちなみに、最初の二人のときには僕は浪人生だったので、お忙しい中ご列席賜りましたことうんぬんというところで苦笑していたが、今回はふむふむ、と、納得した。


三宮のほうに祖父の家があるが、中華街(南京街)は初めて訪れた。

紹興酒を初めて飲んだ。

砂糖を入れて飲むのは、トルコのチャイ(茶)のようでなかなかおしゃれであると思った。


コカコーラは中国語で、口にすべし、楽しむべし、と書く。

みなさん、コカコーラ商品をぜひ買いましょう。


人間の関係について考えなければならないのだが、眠い。


いま、僕の生活は、棒が中心にある。


僕は棒的宇宙における棒的生活を送っている。

棒的朝食を食べ、棒的新聞を読み、棒的排便をして、棒的通学をする。

ここで棒的というのは、棒のように一本筋の通ったという程度の意味である。


農業に興味がある。

町興しに興味がある。

日本を考えている。

戦後を考えたい。

国際関係を考えたい。

沖縄を考えたい。

東北を考えたい。

じっくり考える時間が欲しい。

やりたいことがたくさんある。

じっくり考えていること、やっていることもたくさんある。


水は死である。

水は鏡である。

水平線まで広がる静かで澄んだ水面(重い水、死の水)は夜空を映し、内包し、支配する。

ハクは河の神であるから飛ぶことが出来るのである。

河の神(翁の面)も飛んでいる。


水は血液であり、水は羊水であり、水は涙である。


名前というのは仮面のようなものである。

名前という中心的結束環?に諸要素がぶら下がっている。

社会的存在であるとは、仮面をまとうことである。

僕はまだ、人間を降りない。

中心的同一性の暴力、食べること、傷つけること。


王弁のアポリア

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10822914066.html


福音としての「余剰の傷」

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10774098022.html


名前のない、言葉のない、媒介のない、純粋な経験。

身体の記憶のようなもの、母の胎内における鼓動のような…。


薬湯に浮ぶ草は、女性の長い髪の毛を想起させる。


灯火を掲げる見知らぬ船は、死者の船である。


神は身体を持たないから、日常になじまない。

神は日常における異質な存在である。

存在し続けるために、力を使う。

人はは身体を持つから、非日常になじまない。

人は非日常における異質な存在である。

存在し続けるために、力を使う。


名前と存在。

シニフィアンとシニフィエ。

名前とは何だ。

指差し機能、性質の束、可能世界。

単独性と特殊性、流通しない余剰。


失われた半身について。

私たちは、異界の入り口で影を奪われる。

半身は今正に、死のうとしている。

一冬かけて、消え去るだけだと言う。


カオナシはスライムのように、伸縮自在である。

(ワンピース読みました。)

何でも飲み込む。

自分を持たない。

顔を持たない。

名前を持たない。

でも、河の神だって持たない。

名のある神?


与えること、与えられること、与えられないこと、受け取ること、受け取らないこと、受け取らせること。