【書きかけ】引っ越しについて01 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

私が始めて引っ越しを経験したのは、三歳になったばかりの頃のことだった。
はっきりとした記憶はないが、新居において一人で留守番をしなければいけないとなった際に、「人間は本態的に孤独であり、誰も自分のことを見てはくれない、自分が自分自身の主人であり、自由と責任というものがあるのだ」ということを、わけのわからない底抜けの恐怖として味わったことをよく覚えている。
生まれながらに住み続けた慣れた土地を離れ、知らない人と知らない風景の中へと入っていかなければならないということは、人間にとって一つの死のようなものとして現れるのではないだろうか。
引っ越したばかりの土地は、電車の車内のように名前も肩書きも性格も分からない人々で溢れている。
引っ越しにおいて私たちは喪失の感覚をもつが、そのとき何が失われるのか。
それはまず、人間関係であり、名前である。知らない土地では、当たり前だが、誰も自分を知らず、自分の方でも誰をも知らない。
周りの人と無関係であるから、名前を呼んだり呼ばれたりする機会が失われる。
人間関係は、名前を呼んだり呼ばれたりする経験である。

第二に、土地との関係である。
私たちは自分を取り囲む風景を無心に客観的に眺めているのではない。
それぞれの土地にはそれぞれの意味があり、独特の表情のようなものが私たちに向けられているのである。しかしそれはあらかじめ土地そのものに意味が付着しているのではなく、私たち人間の側が土地へと意味を投げかけている。
例えば、あのベンチでサンドウィッチを食べた、とか、あの木で木登りをしていて転落したとかいう経験があれば、ベンチに意識を向けたときサンドウィッチの味を思い出したり、木に意識を向けたとき膝小僧からしたたる血液の色・匂いと滲む痛みが伴ったりする。
引っ越しをすると、そうした私たちの生を彩る街並みの豊かな意味がみんな失われてしまう。
他者や土地との関係は、自分が何者であるか

引っ越しによる喪失から、人はどうやって回復するか、あるいは、新しい人々や土地と関係を取り結び、適応し、生の意味を取り戻すのか?
様々な行為や活動、そしてコミュニケーションである。

異界と他界
ここで、異界と他界という概念を導入したい。
異界も他界も、日常の現実世界ではないところを指す。
異界と他界とがどう違うのかというと、異界は現実との往来が可能であり、他界は一方通行で行ったきり帰って来られないところのことであると定義する。
異界や他界について語る際に注目すべきは、往来の条件である。
余りにも無制限に往来できるならそれは異質さを失い、日常現実に回収されてしまうからである。異界や他界がそう呼ばれるのは、往来に特殊な条件が認められる限りである。