クライン『子供の精神分析』
象徴交換形式の原基は母の「体内」を他のものに置き換えていくことにある
ではなぜ置き換えなくてはいけないのか
母の体内には父の性器が潜んでいると想像されるからである
不安が置き換えを促す
そこで子供の知的発達が停止する
エディプスコンプレックスの早期の形式である
置き換えの元にあるものと置き換えられた結果との間の等値性は、母の体内への持続的な「参照」の働きによって担保される
この置き換えの遊びを象徴等式と呼ぶ
参照は不変の自己同一性である
不安は参照と置き換えを刺激するが、過ぎると参照が追いつかないほど置き換えが高速化し、まとまりが失われる
まずは不安の原因は父の性器にある
さらに、乳児と母との関係そのものの中に必然的な理由がある
授乳される乳児は幸福であればあるほど不安にならざるをえない
どういうことか
母の乳房は乳児の望むものをすべて、つまり無限の母乳と愛情をもっている
乳房は無限のものをもっている
この無限性そのものを乳児は欲しがる
無限性こそ、乳房が与えてくれない当のものである
無限を独占する乳房はケチで意地悪である
それを求める乳児は貪欲である
乳房からたくさん乳をもらえばもらうほど、無限性そのもの、乳を与え愛情を与える力そのものは手に入らないのだ、と思い知らされる
いっそ手に入らないならそれを破壊してしまいたいという衝動に襲われる
この衝動は(嫉妬と区別して)羨望と呼ぶ
乳児は幻想の中で尿による腐食と大便による爆破という攻撃を加え、乳房を破壊する
破壊しながら乳児は乳房の中に侵入していく
破壊された乳房の残骸としての母乳を乳児が取り込むと、今度は乳房は体内から乳児をおびやかす
破壊された乳房が、今度は体内から乳児を破壊し寸断してしまわんとする
内面の生理的不快感、つまり空腹や排泄欲求も、乳房による復讐の攻撃である
乳児は乳房による復讐の苦痛に耐えられなくなる
そこで、苦しみを外界に投射し、逃れようとする
乳児は母親の中に「復讐する恐ろしい乳房」を投げ入れる
乳児は攻撃に苦しむのは自分ではなく母親であると感じて、つかの間安心する
けれども次の瞬間には苦しんでいるのが自分なのか母親なのかわからなくなる
この状態を「投射による同一化」と呼ぶ
悪い対象、「復讐する恐ろしい乳房」を投射された外界(母親を含む)はその悪意を引継ぎ、増幅する
乳児が外界を外界として知覚するとき、あらゆるものが乳児に対して悪意をもって現れる
すべてが敵になってしまう
内面からも外界からも迫害される
要約する
無限の乳房を、その能動性、愛情と無限の乳を与える力そのものを、乳児は欲しがる
もちろん手に入らない
ならいっそ破壊してしまいたい
乳房を破壊すると残骸は母乳として乳児の体内に入り内側から攻撃を加える
生理的欲求がそれである
これは苦しいので外界の母親に投射する
苦しんでいるのは私ではなくて母親のほうである
苦しんでいるのが自分なのか母親なのかわからなくなる
「投射による同一化」である
外界はすべて悪意をもって私の前に現れてくる
クラインによれば、こうした幻想のドラマは「死の本能」のために起こる
本能とはいっても、生物学的に生得的なものであるといいたいのではなくて、精神的に根源的なものであるといいたいのである
完全無欠な無限の、絶対的に善なる対象である乳房
その理想的対象に同一化したいと願う
それはほとんど倫理的な要求である
生物の「欲求」は生理的で妥当な、ほどほどのもの、分を弁えたものである、生命的に均衡している
ところが人間はそれを逸脱する、完全性への希求を始めてしまう
そこから由来する埋めようのない空白から「欲動」と「欲望」が発生する
欲動は、休むことなく対象を破壊し、破壊された対象につきまとわれる動きのことである
そのとき、意思の主体は対象(乳房)の側にあり、主体(乳児)は自分の欲動の主体になることができない
欲望は、欲動の対象が、ついに所有されることのない失われた対象として、主体に自覚されたときに発生する
この自覚は「罪の意識」を発生させる
対象を損なったのは自分自身であるから
罪の自覚と欲望の自覚は同時である
対象に対して罪があるから、今度はそれを手に入れて愛情を注ぎたい、それが欲望である
しかし元の乳房はもう失われているから、手に入れることが出来るのは乳房の代わりのもの、象徴である
罪ある主体が欲望するときにのみ本来の象徴が発生する
罪ある自己としての主体の設立を「抑鬱態勢」と呼ぶ
また、それ以前の、貪欲と羨望に支配された時期を「妄想分裂態勢」と呼ぶ
悪い乳房に対する迫害的恐怖の観念を「妄想」、理想の乳房と悪い乳房との分裂、それぞれに同一化した自我の分裂が「分裂」である
新宮一成、『ラカンの精神分析』、講談社現代新書、1995/11/20第一刷