カオナシは、河の神と実はよく似ている。顔も仮面で隠されているし、千尋に様々なものを与える。カオナシ、河の神、ハクの三者は一つの実体なのではないか、というようなことを考えています。
油屋は、世俗の縁の切れる祭祀の場であり、性関係が商関係として現れるソープであり、欲望が無限に掻き立てられる高度資本主義市場である
僕において、潜在的能産性と無媒介的抽象と精霊は同じものを差しています。
真っ当に生きるとレヴィナスが読めるようになるというのはわかるような気がする。
というか、真っ当に生きなければ、レヴィナスなんか全然わからないわけです。
私たちは、「心臓の音が聞こえるような」痛みを伴う出会いを積み重ねることによってしか、孤独や絶望や愛について語ったレヴィナスの言葉なんか、なんにもわかりはしない。
人生は歩き回る影法師、哀れな役者だ。
私たちは生のあらゆる瞬間にそのつど役割を演じている。
役割のない生というのは、人間集団社会の側から見れば、ありえない。
あらゆるものは、私たちの目の前にあって、ただそれそのものとしてあることができず、つねに何かしらのものとしてあるばかりである。
私たちは、私たちを取り囲むあらゆるものについて、ただそれを純粋にそのものの現れとしてではなく、何かしらの表れとしてしか受け止めることが出来ない。
性にとどまらず期待される役割を演じる媚態は、武道的身体運用にも通じるところがある。自分が採用する価値規範如何に関わらず、単にそれを受け入れなければならない。
私が射るのではない。「それ」が射るのだ。
仮面を被った私という主体が意思的に動くのではなくて、仮面によって初めて可能になる動きを動かされるのである。
意思があって動きがあるのではなく、様々な動きの中で、その動きの現れる相として、意識が現象し、その渦の内側からの反射光が意思と呼ばれるのである。
男は、媒介なしに「感じる」ことが出来ない。
貨幣、言語、地位の彼方
承認と保障
仮面←永続的に何ものかになっていく現場
何ものであるかということを、いわば凍結し保存しようとする場がポリスである
仮面=政治的主体、「市民」、アカウント、交換可能性、匿名性
何ものか!
マーク・デイヴィッド・チャップマン
人を招き入れること
歓待
川の神、贈与
砂金
返報性、反対給付への切迫
腐敗
ピュシス
オリジナル?
泥団子
カオナシ、交換
貨幣
薬湯の木札
商取引
飽食
資本、金や木札という固化した価値を無限に「増殖」させる
人工
コピー
ハクは河の神であると共に、湯婆婆の手先であるときには油屋の論理を完全に内面化している
湯婆婆の手先であるときには能面のような顔をしている