近代は国家政府、市民社会、資本主義経済を特徴とする。
私たちが生きているいまこの時代は、近代の近代性がもっとも顕著に表れると共に、それが去りつつあるところであるだろう。
私たちの仕事は、まさに死につつある近代を正しく葬送することである。
弔いの仕事がなされなければならない。
市民社会は端的にいえば民主主義である。
民主主義は近代のポジティブなところ、平等や自由の具体的な現象だろう。
でも、なにか気持ちがわるい。
民主主義はいろんな異なるものをみな変わらない同じものであるように扱って参加させる。
よいところとわるいところがある。
民主主義の批判=補完として、差異を差異において肯定する原理が必要だ。
僕はいま、民主主義というボートの船底に空いた穴にあてがうものを考える。
差異を差異において肯定する思想を僕の身の回りから探すなら、フェミニズムではないか。
資本主義は、貨幣と資本を考える必要がある。
プロテスタンティズム、またはキリスト教の根源的な思想から由来する生活態度が条件になっている。
貨幣は本来流通することのないものを流通させ、秩序を壊乱する。
貨幣は貨幣としてのみならず、同時に資本として考察されなければならない。
貨幣は労働商品を流通させることを通じて、資本へと変態する。
一般的経済を考えなければならない。
やっぱりモースの贈与論を読まないわけにいかない。
資本主義のもつ力のうち、いま僕にとって一番切実な効果はその成長や変化を求める性格、時間意識である。
ネオマニー、「新しいもの狂」がメイワクである。
国家は、半分は幻想であるが、もう半分は現実的交通形式である。
前者は宗教と承認(をめぐるコミュニケーション)を考える。
宗教批判と、コミュニケーション偏重社会の考察が必要だ。
後者は保障、戦争と貧困に対する保障が問題になる。
中公新書の国際関係論をとりあえず読んでみよう。