普遍性を求める。
しかし、どうして普遍的でなくてはいけないのか。
特異性、個体性、主体性、同一性が暴力的であるからだ。
だがなぜ、多様性に配慮しなくてはならないのか。
みなが強くなるべきなのであって、弱い人間に合わせる必要があるのか。
僕は世界が鏡のようであったなら、生きるに値しないだろうと考えた。
なぜ未知でなければつまらないのだろう。
知っていることは退屈だと感じるのだろう。
冷徹で強固な等価論理だけではつまらない。
それは生産をしないから。
そこには剰余がないから。
何でも知っている人、何でも持っている人は何も知らないし何も持っていない。
知らないことによってのみ知ることが出来るもの、持たざることによってのみ持つことが出来るものがあるから。
真の知や真の所持は非知的で把持しえないものだ。
だがそれは倒錯ではないだろうか。
なぜ私たちは自己よりも他者を求めてしまうのだろうか。
なぜ欲求に欲望を優先してしまうのか。
その倒錯が人間的倒錯であるからではないか。
私たちは意識をもつ。
外界と内面との別をもつ。
意識主体と認識対象とを措定している。
自他を分けている。
しかしそれは動物も同様である。
では人間と動物とのどこに線引きがあるのか。
他者をその他者性(能動性)において捉えようとするふるまいの有無ではないか。
それを自分自身の内部へと逆向きに投射することで、人間は類的本質をもち、自意識(反省作用)をもち、時間の観念を持つようになるのではないか。