『楢山節考』における神の不在と裸形の死 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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『楢山節考』における神の不在と裸形の死

―再び、おりんは救済されうるか―


01、姥捨ての条件

まず指摘したいのは「姥捨て」はどう考えてもおかしいということだ。それに先立って、共同体とはなんであるか以前の議論を再確認しよう。

一般に、共同体とはなんだろうか。それが目的的存在である場合、共同体の目的とは何か。共同体に入ることで人は「守られ、大切にされ、平和と信頼のうちに生きている。ある種の危害や敵意などに煩わされることなく暮らしているのである」。共同体のメンバーは平和や信頼のコストとして義務を果たさなければならない。逆に、そのコストが報酬と比較して見合わないほど重いと考えるなら、村を出ればよい。

共同体が自然的・無目的的なものである場合。いまだに明瞭な個人意識を獲得していないような共同体のメンバーは、先験的な共同体およびその規範を盲目的に内面化し何も疑いを持たないのではないか。例えばここでは「姥捨て」というような報酬に見合わない「重い」伝統をも守っていくのではないか。けれども、この場合も、近代は前近代の世界から、その内部から立ち現れてきたのであり、どんな共同体もその内部から、共同体自体を解体してしまう潜勢力を宿しているのである。

共同体はその構成員に平和と信頼という飴を与えることで維持存続されているのであって、その飴を上回るような無理強いをしてしまえば、内部から崩壊する力が湧出してくることを確認した。つまり、無理な注文をすると人は逃げる。普通「貧しい寒村である」からといって、その後段に「だから姥捨てが必要だ」とは継がない。食えないのであれば出稼ぎに行くなり交易をするなりしていくらでもなんとかなるのではないか。そういう、姥捨てを回避できないかという試みが一切見られないことが私たちに違和感をもたらすようにおもう。

では、姥捨てを回避しようという試みがことごとく失敗してどうしても姥捨てが必要であるような場合はどうか。大体定住が前提されているのがおかしいのである。「絶対的に食糧が足りないから姥捨てをしなければならない」なら、単に、「そこに村を営むことはできない」のではないか。姥捨てとは、次のような奇妙な事態である。「今ここに3人の子供がいて、チョコレートが2枚ある。1枚足りないから誰かが死ななければならない」なるほど確かに、ある種の特殊な合理性に則っているけれども、やはりこれは奇妙であると言われるだろう。

私たちは次のように問いを進めよう。姥捨てをしなければ共同体が維持できないような環境であるなら「そこに人は住めない」と考えるべきであり、人々が逃げ出してしかるべきであるのに、どうして現にここに姥捨てをし続ける村があるのか、と。姥捨てをしてまでそこに住もうとするなら、他の土地ではなくて楢山でなければならないような事情があるはずである。楢山にあって他の土地にないもの、それは「楢山の神」のほかにあるまい。

つまり、人々は自分たちの生活のために姥捨てという風習を続けているのではないのである。老人たちは皆が生きるために私が死ぬのは致し方ない、という犠牲精神から捨てられるのではない。なりふり構わず、どんな手を使っても皆が生き延びることが最上の価値であるとするなら、早く村を解体して下山すべきなのである。彼らは人間の生に神を優先する。楢山の村は作品に通奏する哀感とは裏腹に、すぐれてイデオロギッシュな共同体なのである。


02、楢山に神はおわしません

では、人々が姥捨てをしてまで近くに住み、それを祀ろうとするほど慕う神とはどのような存在なのか。楢山の神は人々に何をしたか。何もしていないのではないか。作品を読めばわかるように、楢山の神は直接には姿を現さない。きわめて存在感が希薄である。楢山に神がいるなら飢えから村人を救ってみせればよい。あるいは、眼前で息絶えつつある、捨てられた老人たちを救えばよいのに。楢山の神は現世利益をもたらさないようだ。

また、世界宗教と呼ばれるようないくつかの宗教において神は民に律法を与えるらしい。楢山においてはどうか。楢山の村を縛る規範は、「唄」の形式で人々の間に伝わっていく。誰がその唄い始めであるかということは判然としない。立法者の姿が見えない無責任なシステムが築かれている。

人を救うわけでもない。法を与えるわけでもない。楢山の神は何をしているのだろうか。なぜ人々は見えない神を慕うのだろうか。こんなところにいても仕方がないだろうに、どうして人々は逃げ出さないのか。神は何もしない。そんな奴に付き合う理由があるのか。私は神の姿をつかみたい。どういう姿をしているのか一目見てみたい。

神はどんな姿をとって現れるのかわからない。しかし、神は見えなくても、神のために為される人々のふるまいは見える。人々が神のためと思って為すふるまい、神に根拠をもつ行事の動きを追えば、いわば砂鉄によって磁力が可視化されるように神の動きが現れるはずだ。物事の意味ではなく、機能を具に追っていくべきだ。

神のための行事とは実質的に一つしか描かれていない。もちろん、姥捨てである。姥捨てをしてどうなるか。村の食い扶持が減って楽になる。それだけではない。捨てられた人間はどうなるか。飢えて、凍えて、息絶える。あるいは、又やんのように崖から投げ捨てられて転落死することになる。捨てられた老人たちは神に出会っているではないか。おりんも、又やんも、出会っている。おりんも又やんも、死ねば、カラスに食べられてしまう。姥捨てで利を得ているのは楢山のカラスである。強いて言えば、楢山の神とはカラスであり、人々はカラスに人を食わせるためにわざわざ隔絶された山の上に貧しい村を営んでいるのである。ここはカラスのための人間牧場に他ならない。

以上の議論から、恐ろしい事態が判明した。姥捨てには何の意味もない。姥捨てはただ姥捨てのためになされるだけであり外部に目的や意味を見つけることができない。おりんの死は何物にも回収されない。


03、神への懐疑

姥捨てには何の意味もない。姥捨てによる死を有意味性のうちに回収する根拠としての神は不在である。けれども、その底抜けの事実に気づかないうちには人々は不在の神に拠り所をもって甘い眠りのうちに安らいでいられるのではないか。知らぬが仏。作品世界内の人間は村の内的合理性、規範、エートスを完全に内面化しているから「そういうものだ」と自然に思って改めようとしないのではないか。

では、人々が神の不在に気がついているとしたら、どうか。『楢山節考』の考の字は、二人の葛藤、二人の迷いである。二人とはおりんと辰平である。おりんも辰平も神を信じていない。神的事情に人間的事情を優先してしまう。順を追ってみていこう。

おりんは神を信じていない。おりんは楢山に到着したあと、筵のうえで念仏を唱えている。念仏とは文字通り、仏に念じるのではないのか。卑近な例でいえばこれは、彼氏と会っている際に別の男のことを考えている女のふるまいとなんら変わらないのではないか。念仏が楢山の神を満足させることはありえないのではないかと考える。ではどうしておりんは念仏を唱えざるをえないのか。死を受け入れることはそれほど甘いことではないからである。昔からの伝統であるとか、「そういうしきたりになっている」とかいうことで易々と人は死ねない。また、楢山の神を信じているのなら、おりんは楢山に祈るか、黙って死んでいたろう。

 辰平は神を信じていない。

医者と予備校講師は難儀な職業であるとされる。医者はそれが商売として成立する条件として顧客=患者をもつ。患者の病を治すために医者という職業は存在する。患者の病が治ることは医者の存在意義が消滅することを意味する。医者は意識の上ではもちろん患者の快復をねがう。けれども、無意識的、構造的水準においては患者が治らず患者のままであることをねがわないではいない。予備校講師も同様である。それによって生計を立てる手段であるところの予備校においては、顧客=浪人生が合格せずに落ち続けることによって利益が増大する。

彼らはその理性的、社会的な目的として患者の病気快癒、浪人生の受験合格を目指すものであるけれども、それを商売としてながめるとき、顧客としての患者=浪人生の増大をねがわざるをえない。医者と予備校教師は口では「快復を、合格をねがう」と言うけれども腹の底では「病気が治らず、合格せず金を落とし続けてくれ」と思っている。彼らは頭と体が逆の方向を向いている。口ですらすらと唱えてみせることと、そのふるまいとの不一致が確認できる。

辰平は母親のところへかけよって「ほんとうに雪がふってよかったなあ」という。それは、村の掟というローカル・ルールに照らして、雪は(寒さのために死期が早まって)よい、ということである。が、楢山では口を利いてはいけないというルールに反している。雪がふってよい、ということはローカル・ルールを採用する、それに準じてみながふるまうことを前提してはじめて言うことができるものであるにも関わらず辰平自身が根拠である掟をふみにじっている。「雪がふって、よい」と腹の底から信じているなら、その前提としての掟を尊重して黙って下山すればよい。「雪が降ってよかったなあ」という発話行為そのものがまさにその内容を否定している。

 目が覚めつつある人が少しだけ、いる。おりん・辰平親子と又やんである。私は彼らのほうが正しいと思うけれども、まだおそらく村の人口の過半には至っていない。だがおりん・辰平親子は楢山というゲームのきわめて優良なプレイヤーである。楢山の内的合理性に忠実に準じよう(殉じよう)とふるまう。その彼らが、神の不在に気づき始めているのであるから、楢山が停止される可能性はあるとおもう。けれども、それは又やんのような直接的批判ではなくて、おりんと辰平のように楢山に従順であるうちに、楢山の内奥へと向うがために神の不在に気づいてしまうような内的打破のほうが反って近道であるだろう。楢山の奥へ、奥へと進むにつれて、メヴィウスの環をたどるようにして楢山の外側へと抜け出てしまう。


04、結

姥捨てはどうしても筋が通らない。筋の通らない姥捨てをしてまで楢山に住むのは神のためと考える他ない。けれども人々は神を信じきることができない。捨てられた老人たちの死は意味によって満たされることがない。彼らを剥き出しの死から救うのは私たち読者の読みである。彼らの裸形の死を意味のヴェールによって覆わんとするものの、死の現前性に対して余りにもみすぼらしい。その無力、意味への回収が失敗していくその連鎖がおりんを包みなぐさめる襞となっていくのではないか。


□参考文献

合田正人著(2011)、『吉本隆明と柄谷行人』、PHP新書

東浩紀著(2007)『ゲーム的リアリズムの誕生』、講談社現代新書