twitterでのツイートをそのまんまコピペしただけ
推敲中です
楢山を内破する「目配せ」としての最後の挨拶について
医者と予備校の教師は難儀な職業である
その理性的=社会的な目的として患者の病気快癒、浪人生の受験合格を目指すものであるけれども、それを商売として、「たずきの道」としてながめるとき、顧客としての患者=浪人生の増大をねがわざるをえない
医者はそれが商売として成立する条件として顧客=患者をもつ
医者は病を治すために存在する
病が治ることは医者の存在意義が消滅することを意味する
医者は意識の上ではもちろん患者の快復をねがう
けれども、無意識的=構造的水準においては患者が治らず患者のままであることをねがう
予備校の教師も同様である
それが商売である、それによって生計を立てる手段であるところの予備校においては、顧客=浪人生が合格せずに落ち続けることによって利益が増大する
医者と予備校教師は口では「快復を、合格をねがう」と言う
けれども腹の底では「病気が治らず、合格せず金を落とし続けてくれ」と思っている。
身体が逆の方向を向いている
いってることとやってることの不一致。
楢山節考において、辰平は母親のところへかけよって「ほんとうに雪がふってよかったなあ」という
それは、村の掟というローカル・ルールに照らして、雪は(寒さのために死期が早まって)よい、ということである
が、楢山では口を利いてはいけないというルールに反している。
雪がふってよい、ということはローカル・ルールを採用する、それに準じてみながふるまうことを前提して「はじめて」いうことができるものであるにも関わらず辰平自身が掟をふみにじっている
「雪がふって、よい」と腹の底から信じているなら、その前提としての掟を尊重して黙って下山すればよい。
「雪が降ってよかったなあ」という発言行為そのものがまさにその内容を否定している
たしかに、おりん・辰平親子は、まだマシな姥捨てを達成できて「幸福」であるのかもしれないが、その「マシさ」である心的交流は掟の外部で行われていることを見逃してはならない。
結局のところ、楢山は閉鎖系として自立していないのである。
おりんも、辰平も、楢山というゲームのきわめて優良なプレイヤーである。
その内的合理性に忠実に準じよう(殉じよう)とふるまう。
しかしまさにそうであるがゆえに、メヴィウスの環をたどるように楢山の外側へと抜け出てしまう。
「雪がほんとうにふったなあ」という辰平のおりんに対する「掟破り」の最後の挨拶は、いわば、恋人同士を演じる役者たちがひそかに交わす台本にない目配せのようなものなのである
ちなみに、人間が外的な構造に忠実に従おうとすればするほど微細な差異によって反っていよいよ大きく差異化されていくような事態を私は指摘することができる。
武道における「型」である。
ただの突きは、突けば突くほどいよいよむつかしくなる
◆
現役生に加えて浪人生が誰一人受からない状態が顧客数が最大化する場面だとおもう。
ただ、実際には業績悪いと同業他社に逃げられちゃうんだけどね
確かに実際には同業他社に逃げられちゃうんですけど、原理的に考えれば医者はつねにおのれの存在意義を溶かしつつあるような、きりきりと厳しく矛盾した存在であることを確認できると思います
医者がその存在意義を掘り崩しながらしか存在し得ないことは認めざるを得ないでしょ?
個人の主観の上でどうかということは話していないです。
気のやさしい殺人犯がいてもいいのと同様に気の優しい予備校講師や医者がいてもよい
ちなみに、ぼくはその点では医者や予備校講師には同情しません。
海堂作品好きだから例えば救急医の血の滲むような←努力には敬意を表するけれども、医療で食うって発想が特殊時代的「奇習」なのさ
その職業が普遍であるか否かということは、機械化可能であるかどうかで判断できる。
「欠損」を埋める職業はみな機械化も代替化も可能である。
つまり、そうではないような職業がある。
それは例えば教師である。
医者や予備校講師はソフィストにすぎない
でも、医療はその根源にまで遡れば無限なものと渡り合っていたのではないかとおもう。
「健康/病態」の線引き以前の医療?総合=全体ではなく、生成=無限?