私の書きたい/読みたい文章について | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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メールその他のパーソナルな、ダイレクトなメッセージとブログメディアが決定的に違うのは、その配送先だよね。

誰に向けて語りだされているのかがメールでは判明だ。

送信先のひとの顔を思い浮かべながら話されている。

それが目上の人なら口調は丁寧になるだろうし、仲のよい友だちならぶっきらぼうでも構わないだろう。


けれども、たとえばこのブログのような(読む人がいるかどうかはともかくも)オープンな、パブリックなメディアにおいては事情が異なる。

まさに誰もがアクセスを許されているために、一体それが誰に向けて書かれた文章なのか、語りだされた話なのか、メールほどはわからない。

では、それはどのように判断されるのか。

やっぱりその語り口(トーン)によって為されるほかない。

それはより遠いひとに読んでもらえるように期待して書かれるなら、丁寧で礼儀正しくて気分のよい文章を書くように心がけられるだろうし、近い友人にだけ読んで欲しいと考えるなら、ぶっきらぼうであることだろう。

この期待、メッセージがどこまで届くのか届かせたいのかという距離の目測と、文章のカタさみたいなものは対応すると考えられる。

礼節こそはメディア・リテラシーなるものの骨法であるだろう。


ミクシィやツイッターにおいて飲酒運転や未成年喫煙についてあまりお上品ではないことばで告白してしまうひとがいる。

これはそのメディアがどこまで届くものであるのかという期待と、期待に基づく行動の選択(まっとうなひとにもメッセージが届いてしまうような公共的な場においては襟を正すべきだろう)、すなわち礼節を欠いているのだ。

礼節とはわけのわからないものに対するコミュニケーション技法のことである。

鬼神敬して之を遠ざく、知というべし。


話が逸れるけれど、ミクシィやツイッターってソーシャル・メディアと呼ばれる。

けれどもそれはつねに誰しも見ることができるわけではない。

アクセスに制限がある。

ということは、ソーシャルネスはパブリックネスとは必ずしも重ならないということなんではないか。

少なくとも、ソーシャル・メディアと発されるところの含意は、そのように考えられているのだろう。


それから、どのような文章が人を惹きつけよく読ませるのかということを考える。

それは、読んだ人のそれぞれに、どうしてこの人は私がこの文章を読むことを知っていたのだろう。

この文章はまさに私に向けてかかれたものではないか、と誤認させるような文章であることだ。

これを内田先生は「天籟(てんらいと読む)」と呼んでいる。

天籟というのは荘子にあらわれる天から降ってくる音のことで、聞く人によってその音の聞こえ方が異なるものであるらしい。

あれは高く澄んだ音であると答えるひとがいる一方で、低く濁った音であると答える人がいる。

それは聞いた人がまさに聞きたかった音を聞き取ってしまうような音である。

そんな文章をぼくは書きたいのである。

そんな話をぼくはしたいのである。

そんな仕事をぼくは成し遂げたいのである。


天籟的な文章の条件というものを、ぼくは寡聞にして知らない。

けれども、そうした文章に特徴的な要素を内田先生から学んだ。

あるいは、自得した。

それは「目配せ」である。

ほら、そういうことってあるじゃないか、みたいな、ぼくは、きみにこの話をしているんだぜ、みたいな、そういう呼びかけみたいなものが含まれている文章に私たちは惹かれてしまう。

そういうことがあるだろう。


って、ぜんぶ受け売りになってしまった。

そのさきにぼくが個人的に何かしらのものを書き加えなくてはならない。

昨日習った。

ウェーバーによれば、学問は自ら後代の学問によって時代遅れとされることを望むのである。


欲望の感染ということを以前書いた。

何かを説明するために必要なことは、つまり教師に必要な最低条件は、話される対象に、その話が聞き届けられなければならないことを伝えることである。

内容説明の稚拙は問われない。

それが面白いことさえ伝われば十分なのである。

そのためにはどうするのか。


にこにこ話すことである。

天籟的な話を語りだす当の主体の耳にも、それはまさに聞きたかった話として現れるだろう。

つねに天籟はまずもって自分が聞きたい話である。

天籟を語りだす人間は上機嫌であるということだ。

不機嫌な顔をしている人間からは愉快な話を聞くことはできない。

これを実践的教訓としてここに大書しておこう。