読書について考えてみる
「スケジュールの充実は人生の充実を意味しない」
「読書量の多寡は知的到達の高低とは無関係である」
これらのことをぼくはまず己自身に適用してみるべきである
これらのことばをじぶんに突きつけるべきである
予定を埋めればいいってもんじゃないんだ
本を読めばいいってもんじゃないんだということ
これはおかしなことをいっている
たんに忙しいほうが忙しくないことよりもよいだろう
たんに読んだほうが読まないことよりもよいだろうから
けれども一冊の読書から得られるものが百冊の読書から得られるものにまさるということがある
一人の友人とのつきあいから得られるもの(という言い方もひどく下品だが)が百人の友人との付き合いから得られるものにまさるということがあるだろう
で、問題は、その一冊には、その一人には如何にしたらめぐり合うことができるのかということだ
このことについてぼくはすでに考えている
新しいものをはじめるのって、なんでほかのことではなくてそれをわざわざやるのかを説明できない
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10871529313.html
「傷」という構築的な「ないもの」をこそ新しい倫理の核とすべきである。
直線的世界を無理やり円環状にするにはあたかも円いかのようにふるまうことである
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10774098022.html
そこには三つの局面がある。
第一はその一冊であり一人があるであろうことを勝手に無責任に信じていること
第二に何かしらの本であり誰かしらの人をその一冊でありその一人であったように取り違えること
第三に取り違えたあと来た道を振り返ること
そうすればあたかも見えない糸を手繰ったように、まっすぐに進んできていたかのように感得されるだろう
構造としてはこうだろうけれども実践的にはどうすればよいのか
私たちは読むべき無数の本の中から数冊の本を選択し多くをすてる
本を読まないうちにそれがおもしろいかどうかじぶんにとって有益であるかどうかということを感知している
これは不思議な事態である
ぼくたちは内容以外のなにかを徴候として読み取りじぶんに合うかどうかを判断しているのだ
それはぼくは本の差し出され方ではないかと考えている
一昨日サークルのゼミで「児童文学とは何か」という問いが立てられた
ぼくは語り口に含まれる「目配せ」ではないかとおもっている
子どもにも時折目配せを送るから、『星の王子さま』はやはり児童文学でもあるのだろうとおもう
自分が読者にカウントされていると感じられるなら、親密で愉快で穏当なことばで語られているならぼくはその本をぜひ読んでみたい
まとめていえば、なんとなく生きたら幸福だろうし豊かであろうしなんとなく選んだ本こそまさにあなたによって読まれるべきであった本にちがいなかろうということだ