やるやら | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

こんばんみ


百ハイ以後、状況にふりまわされているような気がする。

そんなに特に忙しいわけではない。

いや、やっぱりちょっと忙しいけれどもね。


で、状況に引きずられている感がある。

いまテレビで片岡愛之助さんがお父さんの言葉を紹介していた。

好きならやればいい、嫌ならやめればいい

うん。


ぼくはいぜん、「葛藤」というのは幻想にすぎないことを書いた。


欲望と当為と可能

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10819202834.html


(おまけ、運動・葛藤・不可知なる私性

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10819131759.html )


D)やりたくないけどやらないといけないこと。

問題はこれである。

だいたい、人が苦しむのはこれだ。

やらないといけない、当為とはどこからくるのだろうか。

当為というのは結局、自己価値(私の素晴らしさ)の承認欲望のためにある。

人に認められたいからそれは当為なのである。

試験でゼロ点でも逆上がりができなくても会社をくびになろうともべつにいいと言えばいいのである。

人生はたった一回きり。

そんな些細なこと、どうでもいいじゃないか。

まあね。

でも、やっぱり認められたいなら、当為は当為なのである。

だからぼくたちは、欲望(やりたくないきもち)と、当為(やらないといけないこと)を比較考量すべきだ。

そうすると、やりたくないとはじめはおもったけれども、これをやらないと認めてもらえない、認めてもらうことのほうが、やりたくないきもちを優先することよりも、いい。

そう思ったならやればいい。

そこではやりたくなさが解消されて、認められたいからやりたいことになるだろう。

そうでしょ?

で、そうではなく、やっぱりやりたくない、認められなくていいからいやだ、とおもうきもちのほうが強いならやめればいい。

そのとき、それはもはややらないといけないことではない。

やりたくないからいやなのである。

したがって、「やりたくないけどやらないといけないこと」というのは一時的なまやかしにすぎないのだ。

そんなのありません。


やりたいんだからがんばればいいのである。

ブログ書くと、世界(自然)があって、それに対して「働きかけるところの私(主体)」っていう切り口がもう一度くっきり見える。

えっと、なにを書いてなにを書かないかという水面下の取捨選択が、主体性、まなざしの力学みたいなものを照らし出すわけです。


よくわかんないんだけど、がんばってやろーって気持ちが湧いちゃったりするんだね。


でも、他方で、自己陶冶のため、とかなんつーの、打算的に「ブログやってますツイッターやってますミクシィやってますフェイスブックやってますニコ生やってます?」とかあるじゃない。

あれすごく嫌いです。

S先輩と意気投合したのだけれど、「人脈(笑」みたいなことをぐずぐずいってる奴は近い将来”社会の荒波にもまれる(これも馬鹿げてるんだけども)”際には使い物にならないとおもうよ。

「雨の日を想え」


ちなみにぼくもニコ生以外はいちおうアカウントもってるけどさ…。

もってるからってどうしようもないことはぼくを見ればわかるでしょ。

遂行的に言わせて頂ければ、そんなのもってて当然なのであって、持ってることそのものにはもはやなんの価値もないのである。

瑣末な手続き上の問題ってのはどうでもよい。

問題は、何をするかということ、そして、そうした行為を通して、どういう人間になるかということなのである。


ごめんなんかどうでもいいはなしになった。


ぼくがいいたいのは、ブログを書くというふるまいが個人に第三者的な視点を与え、「行きて帰らなければならない」という気持ちを醸成することです。

「知」と「生」ということがある。

ぼくは最後まで生き残って、あらゆることを見て、それを語り伝えなければならないと強く思います。


ブログ書くとすっきりしてまた頑張れたりみたいなことがあるよねってことだす


蛇足。

さらにつまんないことをいえば相対化していく目もないといけないとおもう。

サークルをやめた(!)K先輩とちょっとだけ親しくなる。

その方向ってすごく危ういバランスのうえにあるよね。