MとF | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

前を向いてー生きて行けばー。


早慶戦があったよ。


お昼はのんびりしたよ。


髪の毛きりいったよ。


目的をたてることはよいことであるだろうか。

微妙ですよね。

将来なにかなりたいものってある?

あーそうかー、きみはすごいなあ。

ぼくも見習わないとなあ。

そんなことをぼくは言います。

でも、それはちょっと待ってよい。

目的は構造的に言い当てることが出来ない。

口にされた瞬間に取り逃されてしまう、そういうことがある。

けれどもしかし、言うことができない、つまり、つねに誤りでしかない将来の目的は立てることを引き受けなければならないのです。

現象学が示したのは、なにかしらのものがなにかしらのものであるためにはそれをそれたらしめるところのものがないわけにはいかないことです。

それをぼくは「目的」、目がけられるところのものと呼んでいます。

でも、そうやって立てられる目的はつねににせのもの、つまらないものであるほかない。

じゃあ絶対的に他なる遠いものはあるのか、というのがレヴィナスの問いであると内田先生は仰います。

レヴィナスは絶対的に他なる他者を求めた

こうした外傷的な表現をぼくは「二重否定」と呼んでいます。


二浪とはマルクス主義であったんだとおもいました。

いわゆる「全入」の時代、無反省に大学に進学するということは「金のための勉強」をするということである。

ぼくは「金のための勉強」をきらった。それは結局のところブルジョアジーの論理であるからです。

ではどうすればよいのかということですね。

金にならない勉強、ほかに目的をもたない、ただ勉強そのものがもたらす愉悦のための勉強を対置しようとしたわけです。純粋な勉強というフィクションを求めたのです。

それが具体的には「読書」というかたちで現れた。

浪人生にとって、受験科目と関わらない本を一冊読むということは、即、「なにものでもないもの」、ミスターノーバディへと一歩近づくということであったとおもいます。

なんとなれば、「二浪」がひじょうに香ばしい存在であるゆえんはまさにその当の存在そのものが「多浪」の可能性を証し立てているからです。

このふるまいはぼくには非常にクリティカルであるようにおもわれました。

けれども、結果的にはぼくは進学しているわけです。

それならばそれで、ぼくは進学の(部分的)正当性を説明する理路を編み出さなければなりません。

まずは進学こそは政治的敗北であるのだという自己批判からはじめられなければならないでしょう。

じっさいぼくは、できているかどうかはまたべつにしてそうやっています。

興味がある人は遡ってよんでみてくださいね。


で、問題はですね、こうした政治的後退局面においてどうしてこんなにも村上春樹の小説に慰められるのだろうかということなんです。

たぶん村上はこうした状況を扱っているからだとおもいます。

「河合隼雄に会いに行く」において、村上ははじめて「デタッチメントからコミットメントへ」ということを問題にしているようにみえますけれど、でも厳密にはこれは「デタッチメントからふたたびコミットメントへ」ということであるはずです。

というのは、すでに、「僕」は学生運動にコミットしているからです。

初期三部作は、学生運動以後、どこまでマルクス主義であるかはわかりませんが、「学生運動的なるもの」と地獄の底まで歩みを一にしようとした鼠とそこから転向しようとした「僕」の物語であるということができるでしょう。

もちろん、ぼくは初期三部作の多元性みたいなものをつまらない読みに還元しさってしまえるとはおもいません。

でもひとつの現れとして、たしかに、そういう読みはあってよいだろうとおもいます。

鼠はその試みに成功しているか。

否。

なぜならそれは原理的に、敗北の試みであるからです。

鼠の試みの全体像は村上自身にもわからない。

羊がなんなのかはさいごまでだれにもわかりません。

けれども、村上は、鼠のことはとりあえず最後まで描いた。

「なぜか」という外側の説明はなされていないけれども、「偶然」は「僕」を鼠のもとへ導きました。

鼠はありえたかもしれない村上のすがたです。

羊はわからない、けれども、鼠のことならわかる。

それは表面的にわかる以上に重要であるとぼくはおもいます。


あしたフランス語の小テストだよー。

ぼくなりにがんばろうとおもうよ…。

そして稽古のあとには政経会の新歓プレゼン最終会だ。

楽しみです。