アルケオロジーというのはけっきょく存在論なのだ。
私を私たらしめている当のものがどこから来たのかと問うてはならない。
状況に因果関係を投影しようとするのではなくて、存在するとは別の仕方で、まだ一度も触れることができるようになったことのないものをすでに触れえないようにしてしまったことについて有責であることを告白することがわたしたちの人間性を基礎づけるのである。
光のうちから歩み去った何か。
ぼくに言わせればこれはたぶん「恋煩い」であるとおもう。
そこにはたしかになにかがあった。
しかし、それはもうここにはない。
「イゴイズムと道義」ということ。
ツールとしての二項対立の導入にさいしての取り扱いの程度がもんだいになった。
言葉遣いについて言及することは些細であるだろうか?
些細であっても、些細であることはけっして非建設的であることを意味しない。
ミクロロジーという方法がある。
微細な差異が、モンダイなのである。
テクストと読みについて。
テクストだけがある。
それはよくわかる。
けれども、テクストに向う読者は世界のうちに立ち、白紙ではない。
あるいは、テクストだけを相手取った「誠実」な読みなるものをなぜぼくに示す?
その「目配せ」は読みを不誠実なものとしていないのか?
ぼくにはわからないな。
なぜそれほど素朴でいられるんだろうな。
明日は楽しみだ。
きっと国家と国際性ということが主題化されるところまでいくんじゃないかな。
世界は広い。
どこも同じなのだという言葉は、ほかでもない、まずぼく自身へと鋭く向けられている。
(という話題にも触れているのだけれど)
ぼくが進学したところはぼくの第一志望先であったかといえば、すこし怪しい。
というかどこかでぼくは「志望」ということを疑わしく思いはじめていた。
いや、もちろん、「希望選択」いぜんに、それを可能せしめるところの相対数値的学力すなわち「偏差値」なるものが決定的に不足していたという事実を確認しないことはフェアではない。
けれども、では所与の(ここではぼくの所属先)について、それを主体的・能動的に引き受けなおすこと。
意味合いを書き換えること。
それはよい行いであると、いまはぼくはそう信じている。
(もちろん、ぼくがぼくの所属先についてその意義を貶めようとするものではない。しかし、かなしいかな、今日の本邦における支配的な価値観として「偏差値至上主義」という「幼児のままごと」がまかり通っているということもまた否定できない事実なのである)
リリーフピッチャーの比喩。
それは敗戦処理ではあっても、しかしやはり一回の登板であることはたしかである。
敗戦投手というかたちでゲームにコミットすることは部分的に肯定されうる。
ぼくはそうおもう。
ハブ・ア・ナイス・ゲーム。