変われば変わるほど変わらないものについて | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

科目登録(履修申請)を投げ出して演武を見学する。

すごいよ。

え…?


世間一般ではなにかしらのことについてよくわかる、よく理解するということは問題が解消することを意味しているように思います。

でも、それってちがうんじゃないか。

イエスもノーもない。

力のせめぎ合いであり流れがある。

それはどこかからどこかへとこんこんと続いていて、始点も終点ももたない。

持続だけがある。

あるというのはまずは持続である。

そこでは性質というものが立てられない。

性質=意味とは差異であり、差異は分節の効果であるからです。

分かたれる前のものはそれとして現れることがない。

それはいわば「もの」性をもたない。

もうそこではそういうものなのだというほかない。


だから先生が仰ったとおりに「解ける」ということがない。

解けてはいけないんです。

だから武道は解ける問いを相手取っているのではないんだと思います。

そこでは理解が深まるというか、ひとつの「わかる」ということ自体の意味がちがう。

ちがう意味が流通している。

ここでわかるということはいよいよわからなくなってくることではないか。


サーチライトの比喩。

テクスト=電気の消えたくらい部屋がある。

どこになにがあるのか、それはいったいどんな部屋であるのか、知りたいとする。

そこでは懐中電灯が必要です。

懐中電灯はある特殊な解釈図式=パースペクティブを示します。


わかるということはまずはそうした解釈図式の水準において認識されたそれぞれの要素がたがいに無矛盾的であること、取り繕われてあることであるでしょう。


このとりあえず採用された解釈図式を仮説と呼ぶとすれば、それがどれだけ妥当的であるかを確認していく作業は実験と呼ばれるでしょう。


えーとうまく説明できない。


ただの突きがある。

ただの突き一本の稽古が、武道をつづけていけばいくほどいよいよわからなくなってくるということがある。

なぜか。

それがなんであるかを確かめるにはそれがなんでないかを羅列していくことで(博物学的センスがないといったばかりだけれど)、迂回的・消極的なしかたでなされるほかない。

突きについてもおなじことです。

こうかな、いやそれともこうかな、ということは、知れば知るほどそれっぽいものが見えてくる。

だからわからなくなってくる。

わかるというのは、問いが解けるということではなくて、いよいよ問いが深まり、わけがわからなくなってくることではないかと、ぼくはおもいます。


先輩に言葉尻をひろわれる。

「正しいかどうかはともかくも」

「うん、でも正しいとか正しくないとかそういうことはないよ」

はい、その通りだと思います。

ただしいとかまちがっているとか、そういう二項的な世界認識があまりにも貧困であることはもう常識に登録されて久しいでしょう。

そうではなくてわれわれはそのつど、ある限界的なパースペクティブを通して、そこに映るゆがんだ世界を眺めています。

そこでただしさというものがあるとすればそれはたくさんなパースペクティブがあいあらそって、弱肉強食の論理を通過することでより強いものが覇権をとる。

そういうことになる。

でも、これもちょっとちがう。

こういう理路をとっても、いわゆるパラダイム・シフトのようなそのつどの時代に支配的な世界認識の劇的転回をじゅうぶんに説明することができません。


あ、ぴんときた。

「変わらないもの探していた」。

奥華子さんの「変らないもの」。

変わらないものってたぶん、変わるものだとおもいます。

ほんとうに変わらないものって、よく変わるものだとおもう。

それは変われば変わるほど、あまりにも変わるが故に変わらないものなのだとおもう。


逆に言えばあまりにもかわったものはそのいよいよ奥深くにかわらないものを隠している。

おお、けっこういいこと言ってるきがする。

「かわるほどかわらない」というのは証明が出来ない気がするから、ひとつの価値=信念にすぎないかもしれない。

でもけっこう有効な気がするな。


劇的転回は地動説と天動説とかか。

地動説と天動説とはじつはたがいによく似ている。

天か地か、いずれかが動いていることを前提としている。

でもよくかんがえてみると動いてると言い切ることはできない。

総体としてはあるいは動いていないのかもしれない。

宇宙を外側から眺めたひとがいない限りは地か天か以前に宇宙動説はいずれも物語にすぎない。

どうして世界は理解可能なのかしら、とかね。


なんのはなしだっけ。

演武の感想が「すごい」としか言えないのは恥ずかしいことであるってことです。

みなさん、一緒によく食いよく呑みよく動きよく考えよく成長しましょう。



以下、オフレコで。

成熟って年齢と無関係であることを確認する。

「わからなさ」に想いを致すことができる人間とそうでないひとがいる。

あ、たぶんぼくが先輩のことをちょっと好きになってしまったのはその世界の理解可能性と理解不能性の絡み合いについての謙虚さ、もっとわかりやすくいえば先輩のころころ変わる表情のうちに変われば変わるほど変わらないものを見てしまったからであるような気がします。

なんつって。

うーんなにはともあれ大学に通うのが楽しくて仕方ないです。