なんかくたびれた。
ぼくはなんでもかんでもそのせいにするものをいつもつくってしまう。
たとえば?
たとえばいまは花粉症か、あるいはもっとひどいのは春だから。
すいません、花粉の季節はパフォーマンスが劇的に低下するんですよ。
こんなだめなぼくもまた春のぼくなんであってしかたないんです。
へっくしゅん!
近代に固有の病がノスタルジーであるならば現代に特異な病は五月病ではないだろうか。
と、ぼんやりおもう。
これで一本かけそうです。
目的の摩滅はどこからくるか。
ひとつは資本主義である。
資本主義とはより高次の目的へと目がける運動に他ならないからだ。
「みな」資本主義のためかは、まだわかんない。
あ、五月病は目的(を設定する機能)の失調であるだろうとおもうのです。
大学で教わる最も重要なことはどうやって問題を解くかではない。
どうやってどうやって問題を解くかという方法を見つけるかという方法でもない。
問いの立て方でもないとおもう。
ではなにか。
どうやって問いを立てようという意欲を解発するかという方法を方法としてではなく教えることではないか。
まだそれを知りたいことを知らないものを知りたいことを知らせること、これである。
五月病を覚えているうちはまだ大学がはじまっていないのさ。
なんで韓国では美容整形がさかんなのだろう。
だってかつては熱心な儒教国だったじゃない。
もちろん儒教の影響も時の流れと共に弱まることもあるだろうけれどもそれにしてもここまで抵抗がないというのも不思議だ。
うーむ?
テキトーはそろそろおさめます。
が、これがひとつの基調であることはたしかでしょう。
だってーぼくはーわりとーむかしからーぐだぐだしてたしー。
大きい問いに向き合おうという好奇心はあっても、日常の瑣末な問題の前ではものぐさなのだよ。
ものには適応性というものがある。
ここでは発揮できなーいとおもうけど仕事場を選ぶのは二流だよね。
刀を加えて(咥えて)二刀流、なんつって。