大学自治について、あるいは玉井さんふたたび | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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ちょっと飽きてきたが…。


「カンニングを刑事事件したのはおかしい」なんて的はずれ!京大入試業務妨害事件「犯人逮捕」は間違っていない 玉井克哉東大教授(知的財産法)が緊急寄稿 | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2214

玉井さんがまとまった文章を寄稿している。

こちらのほうが公式だし、やっぱりいいですね。


業務妨害というのは、他人、この場合は京都大学の業務を妨害する犯罪です。そして、入試業務というのは、試験監督業務だけではありません。監督業務は、問題の作成・チェック・確定・印刷・試験場への配布・試験監督・答案の回収・採点・集計・結果発表という一連の業務の、一部に過ぎません。今回のケースでは、採点作業の傍ら、ヤフーで出た回答との照合を行い、疑わしい答案を特定したと報道されています。もうそれだけで、「業務」への妨害は充分にあったと、私は思います。

なるほど。

業務は監督業務だけでない。

この認識はぼくになかったなあ。

ぼくの議論を見直さないといけない部分がでてくる。


で、逐一考えるのはめんどうなので、好きに書きます。

ぼくと玉井さんの決定的な意見のちがいはとくにふたつあると思うんです。

ひとつは大学という幻想についての認識のちがい。

もうひとつは人の認識についての認識のちがい。


大学という幻想についての認識のちがい。

「大学の自治」に言及する議論もありましたが、受験生は学外者であり、自治の対象ではありません。それに、仮に入試を妨害した犯人が内部の者だったとしても、問題はむしろ大きくなるので、「自治」などといって勝手に大学が処理できることではありません。(もしそんなことをしたら「隠蔽体質だ」とマスコミからさんざんに叩かれるでしょう。)

大学はどのようにふるまうのか。

第一に一般に玉井さんは自治、すなわち自己統治についてその目的を己を利することであると考えているようにみえる。

しかし、自治は利己を目的としてとることができないとぼくはおもう。

己を利するもののなんたるかを知るには己のなんたるかを知らなければならない。

しかし己のなんたるかはそれに先立って何かがなされることによってそれに向けてそれを通じて明らかになる。

何かがなされるにはそれを為す何者かがなければならないが「それ」は現象に先立つものであってもはやわたしたちにとって何者でもないのである。

「自己が何かをなすことは見えない何かに自ら服従することに他ならない」とはこのことである。

わたしたちは利己性に先立ってすでに何かを為す何者かである(「実存は本質に先立つ」)。

そして、これこそ自己統治が統治し得ないものの統治といわれる理由である。

玉井さんは自治という言葉をあまりにも軽く扱っているように見えるんだけど。


第二に、特に大学の自治について。

議論を通して玉井さんが「大学自治」という「青臭い議論」のくだらなさを退けるに際して大学を角界に比しているように思われる。

けれども、言うまでもないが大学と角界は比すことが出来ない。

大学と角界とではどう違うのか。

角界は知りたがり!での解説によれば三つの要素が重なったところにあるらしい。

すなわち神事・スポーツ・興行である。

これらはすべてレディ・メイドを前提としている。

遅れてきた者として自らを規定するのである(べつに悪いことではないよ)。

レディ・メイドとはそれぞれ、神、力を競うプレイヤー、そして市場である。


けれども、大学はそうではない。

大学の本質は「後生畏るべし」であるとぼくは思う。

教育というのは不思議だ。

教育の根源的な姿はそれを学ぶ主体を形成するような知を与えることにある。

教育されてはじめて教育されるべき主体が成立する教育を教育という。

ここで時がねじれているのである。

「師は、弟子が答えを見出す正にその時に答えを与えます」とはこのことだ。

大学はレディ・メイドを前提していないのである。

師は弟子が師を師として見出した正にそのときすでにあったものとして成立する。

それは「同時」なのである。

したがって「学外の部外者たる受験生」こそがまさに大学自治の対象なのではないかとぼくはおもう。


おせっかいだが玉井さんの弱点はたぶん「法以後」しか考えていないことだとおもうけど。


人の認識についての認識のちがい。

こちらはもっと「言いがかり」なんだけども。

大学は警察に通報すべきだったかという議論において、事件発生時の情報が少ない状況における困難な判断が挙げられている。

玉井さんによれば、事件発生時の情報が少ない状況では犯人がどういう人物かということはわからないのであって、だから軽率に判断すべきでない、判断のための情報を増やすためにも通報すべきだ、というかするほかないという。

でもそうかな。

事件発生時の情報が少ない状況では「通報すべきだ」という判断の適否だってほんとうはわからないのである。

ここでそれでも通報すべきだと主張するには、「カンニングのために発生した損害が大学の自治に優先される」という価値(論理ではない)が必要である。

ここが怪しいと思う。

大学自治なる奇麗事は平和裏には結構だがカンニングによって実害が生じている場面においてはまかりならんということである。

でもぼくはそれはちょっとちがうんじゃないかとおもう。

実害が生じている困難な場面において主張されるのでなければ奇麗事はほんとうにただの奇麗事におわってしまい生命をもたないとおもう。

大学自治はまさにこのとき主張されるべきではないのか。

だって大学はなんのためにあるんだよ。

実害に膝を屈するんじゃあ意味ないだろ。

「天の未まだ斯の文を喪ぼさざるや匡人其れ予れを如何」

マスコミごときにどうこうできるものではないのである。


と、おもったが孔子はべつに次のようにも語っている。

「邦道無きときには、行ないを危(たか)くせよ、言は遜れ」

ことばは控えめにせよ。

うーん…その判断はちょっとぼくの手に余るなあ。


でも大学自治は大学にとって生命線だとおもうんだけど。

さきの大戦をみんな忘れてしまったのか。

「告朔の餼羊」ということばがある。

きみは羊(実害)を惜しむが、わたしは礼(大学自治)が惜しいよ。