王弁のアポリア | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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王弁のアポリアというものを考える。

少女の姿をとっている仙人に恋をしたとする。

でも仙人本人のいうとおり中身はよぼよぼの爺さんかもしれない。

真の姿をみせてくれるよう頼むべきなのか。

真の姿をみて幻滅するようでは「ほんとう」?のいみで愛しているとはいえないのではないか。


これは案外難題(アポリア)であり、また広くわたしたちの世界に根を張っているようにおもう。


まず、真の私というものはどこにもない。

「仙人の正体」、真の姿なるものはない。

少女が爺さんに化けこれが「真の姿」であるといったところでそれは本当はどうなのかわからない。

でも、恋人の言葉を信じられないのでは愛しているとはいえないのでは?

くそ、青臭い正論を吐きおって。

これは効く。

そうだよなあ。


真のわたし、ということで、やはり「仮面」を考えるべきだろう。

能や京劇を勉強すれば仮面劇についてちょっとわかるかな。


ぼくとしては「ムジュラの仮面」を参照項として挙げたい。

ムジュラの仮面においてはゲーム世界内にさまざまな幽霊がでてくる。

幽霊はその力を宿した仮面を遺して消え去る。

旅の若者である主人公はその仮面を被って力をふるい、幽霊が生前に解決しようとして志半ばに無念の死を迎えた事件を死者に代わって解決していくのである。

で、おもしろいのは、幽霊がほんとうにいたかどうかということがどうもはっきりしないことなのだ。

もちろん、設定上はたぶん実在したことになっている。

魔法が前提されたゲーム世界の出来事だしね。

けれども、幽霊が実在しなくても、結局死者に代わって主人公が解決していく、その機能さえあれば世界がつづいていく。

主人公が代わって事件を解決したあとの時点から遡って考えてみると、幽霊以前に死者の生前の実在がおぼろげになっていく。

「仮面の下の素顔」が不確かになっていく、そういうことがある。


で、ちょっと話がとんで、推理小説について。

推理小説のスリルはどこからくるのか。

殺人事件が起こる。

加害者と被害者がいる。

探偵がくる。

うん。

では、殺人事件の解決はどうやったら訪れるのか。

犯人がつかまったら?

ではなぜ犯人がつかまると殺人事件は解決されたものとされるのか。

罪に対して罰がくだるからだ。

なぜ罪にたいして罰が下ると事件が解決されたものとなるのか。

この問いは案外むつかしい。

たぶんケガレ・ハラヒの感覚、原初的宗教感覚と同根のものではないかとおもう。

死は宇宙的秩序(日常的平穏といってもいい)に大きな影響を与え、これを損なう。

秩序を回復させるには欠損または過剰が贖われなければならない。


ちょっと話がずれた。

推理小説は結局「喪の儀礼」なのだとおもう。

喪の儀礼は死者の死の真相を明らかにすることではない。

つまり、探偵の仕事は死の唯一的真相を発見することではないのではないか。

いつもひとつの真実を見つけることではない。

ぼくはいまへんなことを書いている。

だって探偵の仕事は真実をあきらかにすることではないといっているのだからね。


そうではなくて、死者の死の未知性に深く思いを致すことが喪を司る存在としての探偵の仕事ではないか。

犯人が必要なのはそいつがいれば事件の真相がわかるからではない。

というのも、現に、まさに犯人に殺されつつあった被害者の心情はぜんぜんわからないからである。

あるいは無念であったかもしれないがあるいは本望であったかもしれない。

それを確言することはもうだれにもできない。

犯人をつかまえて何がおきるのかといえば、なぜこんなやつに被害者はころされなくちゃいけなかったのかという疑問が喚起される。

犯人がみつかると被害者はほんとうは死ななくてもよかったことが見えてくる。

死者をなぐさめるのは、いや、死者を前にするわたしたちがなぐさめられるのは、死者の死の偶有性である。

別様でもあったかもしれない死者の死がわたしたちを救うのである。

「死者は無駄死にさせなければならない」とはこのことではないかと、ぼくは思う。


このことに気がついたのはロング・グッドバイを読んだからである。

弔いとしての捜査というものがある。


さらに、なにかを探すというふるまいについて。

何かをさがすことは結局、さがされるべきものはそれではないことをわたしたちに教える。

私たちはそれが探されるべきものではないからこそそれを探しているのである。

おい、ここはめちゃめちゃラディカルだぞ。

じぶんでいうのもなんだけどな。

探すのをやめたとき見つかることもよくある話しで。

べつに探さなくてもいいから見つかるのである。

不思議。


まだもうすこし話をひろげてみたいんだけどいかんせん眠い。

駆け足。


美少女かと思ったら爺さんでした、という王弁をぼくたちは笑うことが出来ない。

自慢の彼女と思っていたら彼氏でしたってよくあるじゃない。

ないか。

まあね。

セクシャルマイノリティのひとで、自らの、えーっとなんていうんだ、性的位置?を告白することにためらっているひとがいるとする。

それはなぜかというとセクシャルマジョリティのひとがそういうはなしにひどく鈍感であり、しばしば無自覚に差別的であるからだ。

うん、ごめん。

でも、それで告白して相手が幻滅しても、差別として非難することはむつかしいとおもう。

なぜかというと社会的性差というのは幻想であるからだ。

どの幻想を好みどの幻想を遠ざけるかということはそれが幻想であるためによしあしを決定することが出来ない。

ほりの深い顔がすきなひとがほりの浅い顔を好まないとしてもそれは差別ではない。

言っても変らないからである。

あれ、言ってもかわらないと差別ではないのか?

ちがうよね。

差別の定義からしないといけない。

だめだぼんやりする。

パス。


彼女かと思ったら彼氏でした、実は男性器を有していました、として、これは笑い話になるか。

ここで参照したいのは源氏物語の末摘花のはなしだ。

あの時代は顔が見えない。

和歌でコミュニケーションをとり(プローブ、プローブ)、しかるのちに対面する。

顔をみることそのものがたいへん性的な出来事であったということだ。

ここでたぶんファッション論も援用しないといけないんだけど、なんで恥ずかしいのか。

恥ずかしいから隠すのではなく、隠すから恥ずかしいのだ。

ファッションとは「隠すべきものは何もない」という事実を隠す事態に他ならない。

末摘花のはなしの滑稽さ(と笑えなさ)と王弁の滑稽さと、そもそも人間という事態の滑稽さは同型的である。

あれ、ごめん論脈がぐちゃぐちゃになってきた。

ふぁああ。

人間の本質というのは覆いだとおもうんだ。

言い換えれば、「未知性についての信」。

意味があるかどうかわからないものに意味をみること。

で、これって自然現象にヒューマンスケールを超越した存在をみてとるふるまい、すなわち「宗教性」とべつのものではないよね。


とりあえずの結論にとぶ。

王弁のアポリアがおしえるのは、愛というのは決定不能性についての問いの地平からひとつ次数を上げたところで生起するということである。

だから「あなたのことがもっとしりたい」がたいへんにセクシャルなことばとして機能するのである。

おやすみ。