大学デビューと五月病 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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大学で何をすべきか。

たぶん今これがもっともアクチュアルな問いなんじゃなかろうか。

だってみんな大学について考えているからだ。

ぼくも例外じゃないのだ。


大学で何をすべきかという問いが当たり前のものとして問われていることには隠れた前段があるだろう。

それは大学では何かが積極的に為されなければいけないということ、そしてその為されなければならない何ものかが私たちに選ばれうるということだ。

前者は言い換えればよい大学生活とわるい大学生活との別があることを認めることだ。

そして後者はそのよい大学生活なるものを私たちが選び取りうることが信じられている。

率直に言って、ぼくはそのどちらについてもやや疑わしくおもっている。

でもまあ考えてみないとわからない、というかぼくはいつもあらゆることについて考えてみないとわからないといいなとおもっているので、考えてみないとわからないから考えてみるべきであるという考えに同意するのである。


まず、一般に、行為のよしあしはどうやって決定されるか。

ここでいう「よしあし」は最も広い意味にとってほしい。

道徳的な善し悪しも個人の趣味も含め、あらゆる度量衡についてそれに向けてそれを迂回して決定されるところの「それ」を目的と呼ぼう。

行為のよしあしは目的の達成に資するか否かによって判断される。


いま、よい大学生活とわるい大学生活との別があることが信じられているということは、そこでは大学の目的についての信がある。

大学では何をすべきかと問う人はすでに大学は何かしらの目的をもっていることを信じている。

では大学の目的とはなんだろうか。

さまざまに答えうるとおもう。

勉強するため、就職のため、あそぶため、自分が何をしたいのか見つけるため、うんぬん。

しかしこの問いに答える前に、ひとつの批判に答えておく必要があるようにおもう。

それはそもそも大学に目的はあるのか、という批判である。

現に今日この問いは多くの大学生において五月病という形で症候化している。

なんとなれば五月病とは目的の喪失に他ならないからである。

現前する(まだ今年分は現前していないけど先取り的に)五月病は「大学の目的」の実在信仰に対する強烈な批判ではないか?

これに答えずに大義名分を振りかざしても議論はむなしいようにおもう。

ぼくがまずもってすべきは「五月病」の構造分析だろう。


さきにぼくは五月病は現代の病であると書いた。

それは目的の喪失こそが近代という運動の効果であると考えるからだ。

近代とは超越性(フロンティア)を消費する運動である。

目的はそれについてそれに向けてそれを迂回して行為が決定されるところの「それ」と定義したから、目的も超越性の一種であることがわかる。

近代は超越性=外部性を消費しようとする。

外部を加速度的に消費していく。

外部がわずかになればなるほどその消費の速度はいよいよ加わる。

しかしついに外部がすべて消費されつくしたまさにその瞬間、速度は一転してゼロとなる。

これが現代である。

「外部」に「目的」を代入すればそのまま高度成長期を経て無気力になった今日の日本社会の姿を映す。

高度経済成長は目的を消費しようとする。

目的を加速度的に消費していく。

目的がわずかになればなるほどその消費の速度はいよいよ加わる。

しかしついに目的がすべて消費されつくしたまさにその瞬間、速度は一転してゼロとなる。

これが現代である。

昂進する目的消費運動が走破されると停滞が訪れる。

停滞においてはより高次の目的を立てることによってそれを打ち破ることができない。

なぜならば目的を消費しつくしたためにまさにその停滞が訪れているからである。

つまり、「五月病」に対しては、何かのために(目的を立てて)頑張れといくら言ってもその病の治療にはならないのである。

目的を立てられていないことが五月病の克服を阻害しているのではない。

目的の連鎖を終えたから五月病になっているのである。

では五月病を克服するにはどうすればいいのか。

五月病とは目的の喪失であるが、しかし目的が完全に喪失されることは原理的にありえないのではないか。

なぜならば目的がなければ一切の出来事はありえないからだ。

私たちが為しているところの「それ」がただそれそのものだけであって何様でもない「非-もの」としてアモルファスな純粋性に留まっている限りにおいて、目的は必要がありません。

しかし、私たちの目の前にあって、「それ」はただそれそのものとしてあることができない。

「それ」は他ならぬ、別様ではないまさにそれとして、何がしかのものこととしてしか映現しないからです。

それがただあるのではなくそれとしてある、と語られるとき私たちはつねにすでに目的を立てています。


つまり、「五月病である」という何がしかのものとして同定される出来事が現れている限りは目的が立てられているのである。

ではいま、五月病においてどこにもないように見える目的は一体どこにあるというのか。

それは個人の内部である。

目的(外部性)は個人の内部に陥入しているのである。

個人の内部において目的は飼い馴らされている。

飼い馴らしとは距離の無化である。

それは遠いものを近くに、明るみのうちに封じて利用することをいう。

しかし結局のところ内在化され飼い馴らされた目的は人を十分に支えない。

五月病以後の生は生きるに値するだろうか?

怪しいとおもう。

ではどうしたらいいのか。

目的を再び遠くに投げること、投企である。

しかし新たに遠くに立てられる目的は一切内部と先行的な関係をもってはいけない。

なぜならば先立って内部と関係付けられた目的こそは内在化された目的に他ならないからだ。

したがって、それは不可知な目的とならざるをえない。

むしろその不可知性こそが私たちを生かすに足る目的としているのである。

隠れた最高目的についての信は時についての信である。

あらゆるものは容赦なく変っていく。

しかしそれらはつねに確かに何かを指し示しており、その何かはそれへと向けてものことが起こるべきものでは「ない」からこそ指し示されているのである。


さて、五月病の検討を経て得られたのは「最高目的の不可知性」が始点に置かれなければならないことである。

しかし、ではそのことと大学の目的という部分目的との関係はどうなっているのだろうか。

目的が不可知であるということはそれを目指して運動している出来事のよしあしが判断されえないということである。

例えば、タクシーの運転手は行き先を告げられずに運転することを嫌がるだろう。

右折、右折、右折、右折。

果たしてこのふるまいは明かされない目的地に近づいているのだろうか?

最高目的が不明であるということはそれへと向けて決定されるはずの部分目的、つまりそれより高次の目的の手段であると共に、それより低次の部分目的の目的であるような目的のよしあしもまた不明である。

つまり、一般に目的のよしあしが言えなくなってしまうのである。

しかし、これは生活経験に反する。

私たちはつねに何かしらの行為についてそのある程度汎通的なよしあしを判断しながら生活しているからである。

では行為のよしあし、目的のよしあしは言いうるのか。

正しさの中身について語りえなくとも、それを可能にすることの正しさは説得的である。

たぶんそう考えることができる。

わかりやすくいうと、どんな神(最高目的)を信じるかは「人の勝手」であっても、勝手な信仰を可能にすることは最高目的をその条件とする(つまり本質としてもつ)すべての人間にとって正しいといいうる。

それをここでは「公共性」と呼ぶことにしましょう。

つまり、公共性を支えるふるまいは現象学的によき行いである。


私的な「不可知の最高目的」を始点に置いて歩き始めてもすぐに行き詰る。

なぜなら行為のよしあしは内的には決定されないからである。

けれども、外的には、現象学的には消極的な仕方で現れてくるのである。

それが公共性である。

公共性に資する限りでその部分目的は目的として、また手段として、よい。

大学の目的も他ではない。

直接的であれ迂回的であれ、それが公共性に資するならば大学の目的として認められうるのではないか。

ここまではいいだろう。

つまり、どんな行為であれ、それが公共性に資することを説得できるならばよい行為として認められうる。

どんな大学生活であれ、公共性への説明を担うならばよい大学生活である。


ところでもうひとつの視点があるとおもう。

それは「そこでしかできないことは他でもできることよりもより価値が高い」という考え、希少性についての信である。

たしかに、希少なものがより高い価値をもつことは納得できる。

ここでは、よい大学生活は公共性に資するならなんでもよいのではなく、特に大学でしか出来ないことを含む大学生活であるのではないか、という批判となろう。

現にぼくも数年前まではこの立場を採っていた(大学生活ではなく高校生活についての議論だったけどね)。

しかし、ぼくはこの批判はどうも怪しいのではないかとおもう。

これはまたべつに考える。


とりあえず本稿では公共性への説明を担うならばよい大学生活である、というところまで。