01やりたい・やらないといけない・できる
02やりたい・やらないといけない・できない
03やりたい・やらなくてもいい・できる
04やりたい・やらなくてもいい・できない
05やりたくない・やらないといけない・できる
06やりたくない・やらないといけない・できない
07やりたくない・やらなくてもいい・できる
08やりたくない・やらなくてもいい・できない
A)やりたくないしやらなくていいこと
07、08は消していいだろう。
やらなくてもいいしやりたくないならだれもやらない。
01やりたい・やらないといけない・できる
02やりたい・やらないといけない・できない
03やりたい・やらなくてもいい・できる
04やりたい・やらなくてもいい・できない
05やりたくない・やらないといけない・できる
06やりたくない・やらないといけない・できない
B)できないこと
できないことはできない。
なんだろうが、できない。
できるようになってはじめて、問題になる。
02、04、06を消す
01やりたい・やらないといけない・できる
03やりたい・やらなくてもいい・できる
05やりたくない・やらないといけない・できる
C)やりたいしできること
01は、べつにやればいいじゃない。
なんの問題もない。消去。
03もやればいい。消去。
05やりたくない・やらないといけない・できる
D)やりたくないけどやらないといけないこと。
問題はこれである。
だいたい、人が苦しむのはこれだ。
やらないといけない、当為とはどこからくるのだろうか。
当為というのは結局、自己価値(私の素晴らしさ)の承認欲望のためにある。
人に認められたいからそれは当為なのである。
試験でゼロ点でも逆上がりができなくても会社をくびになろうともべつにいいと言えばいいのである。
人生はたった一回きり。
そんな些細なこと、どうでもいいじゃないか。
まあね。
でも、やっぱり認められたいなら、当為は当為なのである。
だからぼくたちは、欲望(やりたくないきもち)と、当為(やらないといけないこと)を比較考量すべきだ。
そうすると、やりたくないとはじめはおもったけれども、これをやらないと認めてもらえない、認めてもらうことのほうが、やりたくないきもちを優先することよりも、いい。
そう思ったならやればいい。
そこではやりたくなさが解消されて、認められたいからやりたいことになるだろう。
そうでしょ?
で、そうではなく、やっぱりやりたくない、認められなくていいからいやだ、とおもうきもちのほうが強いならやめればいい。
そのとき、それはもはややらないといけないことではない。
やりたくないからいやなのである。
したがって、「やりたくないけどやらないといけないこと」というのは一時的なまやかしにすぎないのだ。
そんなのありません。
さかのぼって、Bについて。
できないことをできるようにするにはどうするか。
02やりたい・やらないといけない・できない
04やりたい・やらなくてもいい・できない
これはやりたい気持があるんだから、できるようになるための努力ができるだろう。
だから問題ない。
06やりたくない・やらないといけない・できない
こいつだ。
これはDの議論によって、ほんとうはやりたいか、またはやっぱりやらなくてもいいか、どちらかに変換できる。
やらなくていいしやりたくないならやらない。
やりたいなら努力できるだろう。
Aやりたくないことをやりたくなることはあるか。
ある。
本屋や図書館は私がまだそれを読みたいとはしらない本を探すところである。
やりたいと知らない、つまりやりたくないことがやりたくなる瞬間というものを、ぼくは知っている。
好奇心を育てるには知らないことそのものに興味をもつことである。
知る楽しさを知れば、おのずと好奇心を育てるようになるからだ。
大学で習う最も重要なことはなにかしらの内容ではなく、学ぶ態度そのものであるということをいろんな人に聞かされた(けっこうベタな説教だと思うんだけど)。
ぼくはたぶんすでに知る楽しさを知っている。
知るとは為すことだが、現に為している。
まあとりあえずノルマはクリアしているとおもうね。
現にわくわくしているし。