「やりたいこととやらなければいけないこととできること」
これは「欲望と当為と可能」だ。
ここで問題になるのは、欲望、当為、可能がぼくたちの認識に継起する順番だとおもう。
ぼくは、このまま欲望→当為→可能の順にあらわれるのではないかと思う。
…それとも欲望→可能→当為かな?
いずれにせよ、まずはじめは欲望であることは経験的に明らかではないだろうか。
赤ちゃんは当為(しなければならない、してはならない)以前に欲望、身体的快という基礎的な動機をもって生まれてくる。
可能は、やりたくてやってみたけれども、やっぱりできなかったとき、いつまでもことが成就しないということによって消極的にだけ現れる。
あきらめなければ失敗はない、というのは(まえもちょっと考えたことがあるんだけど)、たしかに一面にはその通りだろう。
失敗を認めずにいつまでも取り組み続けることは、ある程度はできるはずだ。
可能性について考えるには、「ことがなされる」ということを考えてみなければならない。
ここでは「こと」はただ「こと」ではなく、何かしらの「こと」であることとする。
有意味なことである。
余りにも当たり前すぎてかえってなんのこっちゃって感じかもしれないけど、この点はこだわっておく必要がある。
こないだ考えたアリストテレスのキネーシースの議論のためだ。
ここで、何かしらのことを為すということはやりかけたけれどうまくいかなかったことを含まないことにしよう。
そうではなく最後まで全うされたこと、完結性をもつものに限ることにする。
しかし、自然状態において、「完結された事態」がそれとして自体することはない。
それを分節するのは言語であり、キネーシースのパラドクスの解決は言語に預けられないか、あとで考えてみよう。
あれ?
たぶん何言ってるかわかんないよね。
えっと、ぼくがいま考えているのは、なんでぼくたちは「なにかしらのことができない」と考えるのだろうか、ということだ。
必要な条件を欠いているから。
でも、それは今、必要な条件を欠いているということは示せても、いつもできないことを十分に示していない。
つまり、ぼくはバニーガールになりうるか?
今は、条件を欠いているからたしかにできない。
しかし、ぼくたちが勘定に入れるべきは「時」である。
ぼくがバニーガールになりうる条件を満たすべき技術がやがて現れるかもしれない。
では、あることが結局できないということをいうことはできるだろうか。
論理的に不可能なことはどうしてもできないんじゃないだろうか。
今、木に3羽鳥が止まっていて、2羽飛び去って5羽さらに飛んできました。
さいごに木に止まっている鳥が一羽もいないということはできない?
いや、だめだな。
言語哲学のほうに引っ張っていってもなんかぴんとこないのよ。
道を変えた方がいい。
「なされたもの」の秩序はそのためにすべきことというポジティブな要素の汲み入れとそのためにしないべきことというネガティブな要素のくみ出しの不断の運動によって辛うじて保たれ続ける砂上の楼閣に他ならない。
つまり、キネーシースのパラドックスを解消するために、「何かを為すこと」の完結性を犠牲にすることにする。
だがすると問題は…事後性もまた失われることだ。
彼が何者であるかということは彼が何を為したかによって事後において回顧的に決定される。
この原理が重要なのは、これが「承認」に関係しているからだ。
彼が何者であるかということは、他者による承認のために必要である。
修正が必要だ。
彼が何者であるかについての信念は彼が何を為しているかのように見えるかによって想像的事後を迂回して決定される。
事後性を事実から幻想、心的現実に移した。
少し話が飛ぶ。
なぜ目的(意味)の不可知性にこだわるのか。
不可知性こそは、「小さな赤い灯」に他ならないからだ。
それは私を生かす導き手であり、人間は不可知性を核に据えていると考える。
さきに、形而上学(大きな物語)と相対主義を対に並べたけれども、これは本質的な対立ではない。
相対主義「という」否定神学にすぎないんだしね。
より深刻なのは形而上学と現象学の対立ではないかと思う。
これらはおそらく相互依存的・循環的関係にあるのではないかと、ぼくは直感している。
ちょっとおおざっぱに問題をうつすと、形而上学と現象学は私性と公性の対立ではないか。
鶏卵問題になる。
疑えなさを支えるのは私性、それも不可知なる私性であると思う。
いいかえれば、不可知なる私性という仮定、条件のもとに、形而上学と現象学の対立も可能になるのではないか。
不可知なる私性。
ホールデンはどうして救われたのだろうか。
たぶんこの問いのこたえは鼠が救われた理由と同じものではないかと思う。
ぼくがときどきいう「ままならなさ」は、一般に葛藤と呼ばれる。
葛藤とは当為と欲望の葛藤である。
人間の心的苦痛は当為と欲望が鋭く対立するために生じる。
そして山竹さんによれば、精神分析による葛藤の解消は基本的に二つしかない。
それは相互幻想了解、すなわち二者関係における解決。
(人に相談すると、「目からうろこ」)
そして、一般的他者の視点からの判断、すなわち三者の審級を導入することによる解決。
(人の信じている「人」、ここにはいないあの人ならどう考えるかと考えること)
しかし、ホールデンが救われたのはそのいずれによるものでもなかった。
ホールデンは自らは雨に打たれながら、楽しそうなフィービーの姿を眺めることによって救われたのだから。
アントリーニ先生は二者であり、学校や社会は三者である。
いずれをもホールデンは蹴った。
アントリーニ先生の教え、「未熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ」、これは最後に生きてきたとおもうけれども(作中、この言葉が書かれた紙を捨てた描写はない)、まずは疑った。
ホールデンをぎりぎりのところで繋ぎとめたのは、私性ではないかと僕は思うのである。
加藤さんは「可誤性」といっていた。
ホールデンは自らよりも多く誤りうるもののために救われたのだ、と。
ここに、村上の仮説「フィービーはホールデンのオルターエゴ(もうひとつの人格、もうひとりのホールデン)ではないか」を付け加えるとこうなる。
ホールデンは自らよりも多く誤りうる自らのために救われた。
言い換えれば「もっと弱い私が私を救う」となるだろうか。
だが、私は私である。
もっと弱い私が私であるとき、私はもっと弱い私であるのであって、結局は私は私であり、もはや「もっと弱さ」は解消されてしまう。
もっと弱いと言うためには「時」が必要である。
つまり、不可知なる私性という私の内なる他者によって私は救われる。
そして私性の不可知性は時の不可知性に他ならないのである。
ぼくが最後に突き当たった言葉は「ここがゲヘナだ、ここで死ね」である。
おそらく、ホールデンも同じことを考えたのではないだろうか。
そして、鼠も。
しかしその道の先にはふたつの言葉が待っている。
「死者は無駄死にさせなければならない」、そして、「また会おう」である。
時は愛に求められる。
さきにぼくは醜い私は愛されうるかという問いは私が醜いものを愛しうることを示すことによって答えられるほかないと書いた。
そして、愛はどこからやってくるのか。
それは私のうちに求められるほかない、換言すれば、それは信念によって。
ビリーブ・アンド・ラブ・ウィル・ビー。