人はなぜ働くのか、あるいは困難な目的について | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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何かを成し遂げるために私たちができることは二つしかありません。

すなわち、すべきことをすること、そして、すべきでないことをしないことです。

しかし、何がすべきことで何がすべきでないことであるのかということを判断するには何かしらの価値基準が必要です。

その基準に照らし合わせて、該当するものをすべきこと、ポジティブな要素、該当しないものをすべきでないこと、ネガティブな要素として色分けがなされなければならないところのものさしです。

それはここではまさに、私たちが成し遂げようとしているところの何かであり、これを目的と呼ぶことにしましょう。

つまり、目的は「まだ」現実化していないもの、誰も知らないものであるのと同時に「すでに」それを欠いてはそれそのものの現実化がありえないような、それ自身を可能とする条件でもあるのです。

目的は現に為されなければそれがまさに目指されていた当のものであることが決定されないものである一方でそれが目指されるところのものでなければはじめから何ごとも為されえないようなものである。

この事態をして、ぼくは以前「人間は目的の奴隷である」と書きました。

でもちょっと言葉足らずですね。

これはことの半面しか言いえていない。

同時に、目的を可能とするのはその奴隷たる人間であるのです。

「主人と奴隷の相即」。


目的の構造を考えてみましょう。

私たちはつねに何かを為そうとする。

そのとき、何かしらのものが目的として設定されていなければなりません。

なぜか。

それは私たちはただ為すのではなく、何がしかのことを為すのだと私たちが考えるからです。

私たちが為しているところの「それ」がただそれそのものだけであって何様でもない「非-もの」としてアモルファスな純粋性に留まっている限りにおいて、目的は必要がありません。

しかし、私たちの目の前にあって、「それ」はただそれそのものとしてあることができない。

「それ」は他ならぬ、別様ではないまさにそれとして、何がしかのものこととしてしか映現しないからです。

それがただあるのではなくそれとしてある、と語られるとき私たちはつねにすでに目的を立てています。


すみません、恐ろしくもやもやとした話です。

補助線を引きましょう。

意味とは差異です。

差異であるということは比較が必要です。

比較に必要なものはなんでしょうか。

比べるものと比べられるもの。

はい。

しかし、それだけではありません。

もうひとつ、それについて比べられるところの観念です。

小学校までに習うもっともラディカルな思考のひとつは「比較」です。

二本の鉛筆について比べるとき、何について比べるのかということをそろえなければならない。

Aの鉛筆の長さとBの鉛筆の重さとは比べることができません。

しかし、長さや重さの実在性については立証することができない。

長さや重さというそれについて比べられるところの観念は比較の有意味性を担保する条件であるわけですが、あくまで仮説のうちに留まります。


この、それについて比べられるところの観念の位置に先の目的は置かれます。

その目的を達成するための他の手段としての為すことではないまさにそのそれとしての何がしかの為すこと。

ここで、目的がそれという為すことを可能にしていることがわかります。


さて、では、その目的とはそのときどきにおいて、具体的には何であるでしょうか。

ぼくはそれは語りえないと考えます。

言い換えれば、ま、なんでもいいんですけど、「一生懸命」やっている人に対して、あなたはなぜ「それ」をやるのかという問いにへらへら答えてしまう人は愚鈍と慣れで生に耐えているんだなと思います。

ぼくが努力の素晴らしさについての説教に胡散臭さを感じて反発した原因はここにあると思います。

なぜ目的は語りえないのか。

ご説明しましょう。


まず生活実感から考えてみても、目的はよくわかっていないことがわかります。

「目的はつねにより高次の目的の手段としてあるほかない」

例えば、他意なく素直に、医者になろうと思う人を考えてみます。

今日、最も自己の仕事を信じることができる職業ではないかと思うからです。


なんで勉強なんかしなくちゃいけないのか(01)。

医学部に入るにはよい成績が必要だもの(02)。

医学部に入るのはもちろん医者になるためだ(03)。

医者になるのは究極的には人を生き永らえさせたいからだ(04)。

そりゃたとえ生きながらえてもそこから生きたいと思えるかどうか(05)ということまでは結局は他者には立ち入ることができない限界がある。

けれどもやはり生を信じるということがある(05’)。


グッド!

05にはたとえばもう一度元気になってマラソンを完走してみたいとかね。

旅行がしたいとか親類の墓参りにいっておけばよかったなとか。

患者の目的にまでうつってゆく。

連鎖は終わりません(しばしばそうでもないんだけど目的を微分すれば無限です)。

01より低次の目的もあります。

静かな部屋がほしい。

なぜ?

勉強したいから。

静かな部屋が必要だから一人暮らしをしたい。

そのための費用を稼ぐためにバイトがしたい。

目的は捉えたと思った瞬間つぎの目的の手段に転落していることがわかります。

ではどうやって目的を捉えるか、考えてみましょう。

ぼくはそれはまずは二つの方法に大別できるだろうと思います。

すなわち、無限とゼロです。


無限による解決法というのは、目的の無限連鎖の向こう岸に最高目的を立てる考え方です。

これを形而上学といいます。

無限がそこから湧き出てくる根源を言い当てようとする態度のことです。

ゼロによる解決とは相対主義です。

形而上学における根源(最高目的)の位置に「最高目的なんてものはない」という言葉を置きます。

無限が解消されてゼロ、現れている運動が意味をみな失ってただそれ…としても指示されない「非-もの」として、一切が崩れ落ちます。

落落磊磊。


けれども私たちはどちらも選ぶことができないようです。

だって、前者はどんな教説であれ、そこで説かれる何が根源であるかということは決して立証されない水掛け論にしかならないし、後者はそもそも「骨も残らねェ」からです。

参ったね。

はい、で、三つ目の道を示しましょう。


それは、現にこうしてよくわからない目的の下に何がしかのことを為している人間の確かさに対して一定の評価を与える立場です。

最高目的のなんたるかはなんとでも言いうるし、その存在を実証することはできない。

けれども、その最高目的の実在という条件の下にしか不可能であるところの何がしかのことをなすことが私たちによって現に繰り広げられているようであることは一定以上説得的な確かさを有しているのではないか。

言い換えれば、これはたしかに夢であるかもしれないけれども、その確かさを相当程度私たちは信じている。

つまり、本当にこれが現実であるということを示そうとしたり、どんな現実であるか、最高目的はなんであるのかということの内容を確言しようとするのではなく、私たちが現にこれを現実であること、それが何かという内容についての議論は措いてとにかくなにかしらの最高目的の存在を信じているようであること。

それを人間の本質とする仮説が相当説得的な価値であることを評価し出発点に据えるべきであるという立場です。

これを現象学といいます。

信じる人間を信じるという点で、ルソー=カントにまっすぐ連なっていると思います。


現象学のメリットは目的の不可知性と矛盾なく作動することにあります。

本稿を読み返したらぜんぜん話がつながってなくてびっくりしたんだけれども(ごめんね)、ぼくは目的の可知性を信じていません。

なぜかってことなんですけども、それは「人間の欲望は他者の欲望である」からです。

経験的に言って、なぜ私はそれをするのかということについてきっちり言い当てることはだれにも出来ないと思います。

言い換えれば私は私が知らないことを知っていると思っているからです。

無意識って信じます?

あれも原理的に実証できないんですけど、でもたぶんあるっぽいよね。

ぼくは信じます。

なぜかということは話が長くなるのであとに回すことにして、現象学のメリットは目的の不可知性と矛盾なく作動することにあります。

さて、では現象学から考えて、よい行いってなんでしょうか。

正しさの中身について語りえなくとも、それを可能にすることの正しさは説得的である。

たぶんそう考えることができる。

わかりやすくいうと、どんな神(最高目的)を信じるかは「人の勝手」であっても、勝手な信仰を可能にすることは最高目的をその条件とする(つまり本質としてもつ)すべての人間にとって正しいといいうる。

それをここでは「公共性」と呼ぶことにしましょう。

つまり、公共性を支えるふるまいは現象学的によき行いである。

ぼくはそう思います。


公共性を支えるふるまいを比喩的に「雪かき仕事@村上春樹」と呼びます。

で、以下、インプロヴィゼーションとして辛うじて認められた(認められなかったけどな)いよいよつたない議論に入ります。

いや、くたびれてきたんだよ…。


労働の本質的な姿というのはこれは雪かき仕事である。

しばしばやりたがらないがしかし誰かがやらなくちゃいけない。

それは何かのためではなく何かのためを可能とするために為される。

だから労働は尊い。

なぜ働くのかという問いの地平では問われえないものを核に労働は成立している。

だからどんなことをしたいのか、なぜ働くのか、将来どうするのか、どうやって生きていくのか、あるいは働いてみないとわからないことなるものの純粋性は労働とは何の関係もないのである。

わかった瞬間に一歩先のわからなさの中に退くようなもののために私たちは働くのである。

といったものの、まったく理解されなかった。

妥協点として、ぼくは「まだ」働いてみないとわからないものについてはわからない、ということを認めた。

これは先の議論に照らしてもやはり一応正しい。

ただホントは、「まだ」ではなく「ついに」なんだけどね。


寡聞にして「人はなぜ働くのか」という問いに上のぼくの議論よりも原理的に答えている人を知らないので、それなりにおもしろいんじゃねえかと思います。

で、もうひとつ、なぜ目的の不可知性にこだわるのかということはまた今度。

あ、と、忘れてた。

(05’)について、よく生きるとはただ生きることだ。

だからやっぱりお医者さんは偉いよ。

フーコーの生権力論はちょっとあれだ、あいつは自由フェチがきついんだ。

ないものねだりはほどほどに。

べつに非実在的対象を愛してもいいんだけどな。