aicezukiくんのカンニング問題を奇貨として色々考えはじめる | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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aicezukiくんが逮捕された。

ほんとうはどうかわからないけれども、仙台市内で捜査官に任意同行を求められたとき「ほっとしたよう」だったというのでなんとなくふうんとおもう。

ふうん?

大学の入学試験でカンニングをはたらくというのは、これはなかなか度胸がいる行為であるだろう。

で、そんなことをしたとなると、これはほかの人と何かが決定的にちがうようだと思うわけだ。

属人思考だけれども。

彼が何者であるかということは彼が何を為したかによって決定される。

うん。

で、そんな理解しがたいようであるaicezukiくんだが、しかし彼自身のカンニングが引き起こした反響のあまりの大きさに困惑して手に余っていて、彼にとって不利な状況であるとはいえ警察の保護下に入ることでちょっと安心しちゃったりするところの脇の甘さ、ぽろっとこぼれる人情味に理解の端緒を見つけて、ぼくはふうんと思ったのである。

ふうん。


まずハンドルネームから。

たぶんね、これはたんにアイスが好きなんじゃないの?


カンニングの監視は厳しくすべきか。

これは慎重に考えるべきだと思うよ。

厳しくするには費用と手間がかかるね。

費用の財源はどこからくるのか。

手間のほうは大学の先生にその負担がいくことになる。

試験官だけやってりゃいいわけじゃない。

専門の研究の時間が削れちゃうんじゃないの。

で、だいたいこれまでなかった仕事、とくに試験官のようなストレスフルで誰もやりたがらない仕事が新しく発生したとき、それをこなすのは優秀ですでに忙しい人だ。

難題は忙しい人に押し付けられるのである。


でも、じゃあカンニングを座視すべきか。

これも微妙。

カンニングを座視するということは、カンニングをするような人にわが大学に来てもらいたいという消極的なメッセージとして機能してしまうからである。

あんまりよくなさそうだよな。

でも、もうひとつ、まだカンニングするような阿呆であっても受け入れて育てるべきではないのか、ともおもう。

大学というのは一種のアジール(逃れの街)としてあるべきである、という態度はカンニングを…。

許すべきなのか?


そもそもどうしてカンニングしてはいけないのか。

おお、ついにきましたか。

ある部分については「どうして列の割り込みをしてはいけないのか」という問いとかぶる。

これはまた考えてみよう。

でもちょっとだけおもうのは、カンニングは人の迷惑になるか、というとあんまりならないような気がするんだな。

成績がよくても、だからどうしたとおもう。

一般には、なぜカンニングはわるいのかというのは案外答えるのがムツカシイ気がする。

テストはそもそもなんのためにあるのか、から説き起こさないといけないだろう。


で、ここでは特に大学受験におけるカンニングについてもべつに考える必要がある。

日本の場合、学歴重視・新卒一括採用というわけのわからん旧来の陋習がまかりとおっているので、うーん。

いよいよオオゴトになってしまう。

学歴について語ることは学歴という共同幻想の延命に資してしまう。

だからどこかで学歴の話題は不浄であるという感覚があるのだろう。

学歴についても考えなければならない。

まあアホくさいんだけどな。


□茂木健一郎さんがTwitterでカンニング事件について語り暴走中

http://alfalfalfa.com/archives/2416208.html

茂木さんが怒っている。

気持は分る。

京大ってもっとかっこいいもんだとおもってたぜ。

普通の大学になっちゃったのかもしれないね。

カンニングもダメだけどさ。

大学の公権力に対する自立性という問題がある。

最近、「大学経営」とかうるさいね。

ビジネスライクな視点で世界を覆ってやろうとする欲望があるようだ。

大学というのは結局なんなのか。

さきの「アジール」という考え方は、網野さん由来だけども、公・世間・私ということを考えないといけない。

大学が自立するにも、何かしらの力が必要だ。

大きな図体を律するルール、お金、他の権力に向かい合うための…どうかな、今読んでるのだと「悪意」となっている。

大学のなんたるかはもう少し時間をかけて考えてみよう。

ひとつは「広場」…だよね?


aicezukiくん、ことの経緯はともかくも、ぼくにとってはものを考えはじめる契機となり、勉強になったよ。

大学受験でカンニングするとこんなにオオゴトになるんだな…。

ぼくも知らんかったよ。

でも、動機はなんだったんだろうな。

ほんとにずるしてでも大学に入りたかったのか?

ぼくは大学に入りたいような気がしたけど結果的にはカンニングはしなかった。

わからん。

する度胸がなかっただけなのかもしれないし、カンニングが露呈するリスクを負ってまで大学に入りたいわけでもなかったのかもしれない。

世界は広いからな、いずれにせよ、わかったつもりにはならないことをオススメする。

とりあえずいまは謝るしかないかもしれない。

しかし何について?

カンニングをしたこと?

世間を騒がせたこと?

大学試験システムそのものを揺るがしたこと?

「こんなひどいことが起こるとは思わなかった」とこれ見よがしに嘆いてみせる良識あるコメンテーター諸賢の心に傷を負わせたこと?

わからないよな。

ぼくにもわからない。