メモ:「廃墟」・「弁証法」・「疎外」・「商品性」 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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・ぼくの「廃墟」の説明はちょっと違うかも。

ぼくのいう「廃墟化」は単に脱魔術化だろう。


批評というのはあるテーマに埋没しないで、あくまで外にたって、外から評価を加えよう、理解しようということだと思います。

そして、その際には必然的に、「廃墟化」が伴う。

「廃墟化」というのはヴァルター・ベンヤミンさんの術語なんですけど、どうかな、ちょっとぼくなりの理解を説明します。

違ったらごめんね。

「廃墟」というのは「マジック」の対義語です。

ある対象に埋没した状態で、内在的に評価を加えるとどうしても甘くなっちゃうじゃないですか。

その(しばしば無自覚的な)バイアスをぼくはマジックと呼んでいます。

マジックにも種類があると思う。

これ書いたら怒られそうだけど、言ってみれば、ブスの中にフツーの子がひとり混じってると相対的に美人に見える。

そういう限定性がまずひとつ。

それから身内への甘さ。

おじいちゃんおばあちゃんが孫に甘くなるとしても、うーんまあ、ある程度は仕方がない。

「そんなのヒイキじゃないですか」っていうのがふたつめ。

もうひとつは恋愛の結晶化作用ということが上げられると思う。

(中略)

一度惚れたらもうダメで、細かいミスみたいなものはみんなゼロ査定されるようになる。

「あばたもえくぼ」じゃないけど、フェアネスということではまあダメです。

しかし批評はそんなマジックを解除してしまいます。

クールに考量すると「ほっといてよ、人それぞれでしょ」ってことになる。

うん、ごめん、怒らせるつもりはなかったのだよ。

「廃墟化」ってたぶんそういうことだと思います。


ベンヤミンが「廃墟」というとき、そこにはポジティブなポテンシャルが見て取られている。

廃墟はアレゴリーとして機能する。

アレゴリーは寓意と訳される。

でもメタファーとの違いがいまいちわからない。

普遍であり同時に特殊であるものをいうらしい。

あとで「商品性のうちに状況を打破する可能性を見て取る」という態度がでてくるけれど、それはベンヤミンのアレゴリー的世界認識が念頭に置かれている。

アレゴリーがなにかもよくわかってないんだけどね。

また、ぼくの「弁証法」の定義は「乗り越え可能性」をそのままあてたもの。

あ、あれって「弁証法」だったんだ、みたいな。


乗り越え可能性についての構造は、

「あらゆる状況についてそれを乗り越える契機は

予めそれそのものに内包されている」というのが

それである。

これを今、「潜勢的超越可能性」と呼ぼう。

乗り越え可能性についてのメモ

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10655781624.html


・疎外と物象化をめぐって

もったいないので転載。

ぼくの書いたものです。意外と長く書いてたね。

「商品性」の議論はぼくのいう「金次第イデオロギー批判」の文脈に通じます。

それが商品性に還元されない余剰なもの(=愛と敬意)を対置して克服すべきか、あるいはここでいわれるように商品性そのものに求めるほかないのか、ということはもうすこし考えないと見えてこないですね。


疎外とは「自分にはこれくらいの報酬が与えられてしかるべきだという期待が満たされない不遇」をいうのではなく「能動的・主体的に構成、選択したはずの自分の考えに今度は反って私自身がそのふるまいを規定されてしまうこと」の謂いである。

(「疎外」とは「自分にはこれくらいの報酬が与えられてしかるべきだ」と自分で期待していたものが与えられない不遇をいうのではありません。

そうではなくここでは「勝手に自分で考えた「自分にはこれくらいの報酬が与えられてしかるべきだ」という期待が満たされないとぶーぶー文句を言うこと」を疎外というのです。

「マルクスは難解だ」という通念があります。

一度「難解な思想家としてのマルクス」というイメージが構築されると「どのようにむつかしいのか」「どうすれば理解できるのか」という反省が封じられてしまう。

そして二つの態度が現れてくる。マルクスから離れるか、マルクスを神格化して祭り上げようとするかですね。

そしてこのような事態を「疎外」というのです)


「商品性を否定し、商品的な価値を低く見たり、商品価値に反発して、かけがえなさや、聖なる価値、真善美などを価値に含めるというのも、実は商品的な存在構造からくる自己否定的な意識ではないかということです」
んーむつかしいな。

ぼくなりに言い換えれば「お金じゃ買えない価値」という問いの立て方もまた「主体的・能動的に構成したはずの「商品性批判」に、こんどは反って私自身がそのふるまいを規定されてしまう」ような「疎外」であるのではないかということだとおもいます、たぶん。
「世の中金次第」というイデオロギーに対して「ちがうもんお金じゃかえないかけがえのないものだってあるんだよそんなものも見えないあなたの心の貧しさがかわいそうでならない」的批判を対置してもだめだということです。
はい、ぼくもそう思います(すいません我田引水ですね)。
で、じゃあどうすればいいのかということです。
ぼくは「弁証法」があると思います。
ちょっと自信がありませんが勝手に定義すると「弁証法」とは「ある体制を乗り越える契機はそれそのものに予め内包されている」という、んー、「信念」のことです。
だからやすいさんは「商品性」のうちに、資本主義の内部から、それを超克する道を見出そうということを仰っているのです。

これは超クールです。
…あれ?疎外論から商品性の議論に重心がずれてしまいましたが、とにかく疎外論というのは人間の本質に鋭く迫っている為にすぐこけちゃうのです。

でも疎外という概念自体は決してむつかしいものではないですよ(ということにしないとぼくが理解できないからいやです)。


*


①弁証法うんぬんは言葉遊びにしかならないんじゃないの?
②商品性の内に解決の道を見いだそうというのはオプションとして選択可能というような何か余裕がある状況なのではなく単にそうするしかない必然なんだって感覚が(hyoroに)欠落してる感じがある
③愛(や敬意や商品性に還元できない余剰のもの)の 中にもまた別の「きつさ」があるものだよ
①について。

端的にいうと、ぼくはマルクス初心者なんですね。

だからハンデをくれと言いたいんじゃなくて、最初のぼくのコメントみたいにマルクス研究者からしたら完全に血肉化されている「余りにも当たり前な当たり前」(ここでは「弁証法」という術語)がぼくには新鮮に見える。
だって天下のマルクス研究コミュニティーの掲示板にわざわざ「疎外とはなにか」を書き付けたり「奥様ご存じですか、世界には弁証法という言葉があるそうなんですよ」という滑稽な態度はまさに「釈迦に説法」ですよね。
でも「弁証法」はすごくぼくに勇気を与えたし、そのささやかな感動みたいなものは決して偽物ではないと思うのです。
ということがある一方で「弁証法」は道具的手段ではありません。
変なことを言いますが(あるいはこういうのを「言葉遊び」と仰っていらっしゃるのかもしれません)、商品性のうちに状況を変える手がかりを見いだそうとする人間はそれを意志する前にまず、状況を変えることが可能であること、さらに商品性のうちにその手がかりがあるということについての「信念」が必要です。
そしてその信念なるものこそが「ある体系を乗り越える契機はそれそのものに予め内包されている」ということの信念である「弁証法」ではないかとぼくは書いてみたのです。
この弁証法の定義はぼくが勝手にしたものですから間違いかもしれませんけどね。
②商品性の内に解決の道を見いだそうというのはオプションとして選択可能というような何か余裕がある状況なのではなく単にそうするしかない必然なんだって感覚が(hyoroに)欠落してる感じがある
そこそこ同意です。

ただ商品性以外のものとして愛と敬意がある訳だし、商品性(市場)によって人間が結構不幸になっても恋人や友人たちと楽しくやっていけるというのも事実だと思うんですね。
現代日本はマルクスが批判した近代イギリスの労働状況に比べたらずっとましです。

そこで愉快に暮らしている貧乏人に対して「君は一見幸福そうに見えるが本当は収奪されている不幸な人間なんだせ。社会を変革しようよ」と言ってもしばしば相手にされないと思います。

このことが教えるのは市場批判としての「商品性のうちに解決を見いだそうと努力すること」は個人の生活というミクロの視点においては「歴史の必然」としてではなく、たぶんに能動的・主体的に選びとられなければならない「オプション」として現出するという事態ではないでしょうか?
それとおまけですが、仮に「商品性のうちに解決を求める態度」が必然的なものであっても、それを主体的に選択したんだと見なすことは一応可能かなと思います。

これこそ言葉遊びなんですけどね。
③愛(や敬意や商品性に還元できない余剰のもの)の 中にもまた別の「きつさ」があるものだよ
うー…すみません。

寡聞にして愛の「きつさ」がいまいちピンとこないです。

…くっ。
商品性でないものは「互酬性」といわれるんですか。

商品性と互酬性の最大の違いは「時」の要素の有無ですよね。商品は貨幣と同時に交換されるけれど、贈与には時間差がある。
市場にはプレイヤーの「かけがえのない個性」を最小化しようという圧力がある。

性差も人種差も老いや病も交換可能なものとして「見なされる」。
対して愛は微細な差異を最大化しようとする。