人間には空間的・時間的限界があることを勘定に入れなければならない。
…というつまらないことを確認したところで、考えてみよう。
「はい?きみはなんなの?」
うん、ぼくもそう思う。
そうなんだよ、なんだろうってことを考えようというのだ。
さっそくやってみよう。
あのね、思うのは、たぶんぼくたちっておなじ問題を抱えているんじゃないかってことです。
ぼくが何か書くでしょ。でもきみはたいがい「ふん、おめーがどーなろーと知ったこっちゃねーよ」と考えると思う。
正直なはなし、逆の立場ならぼくもそうするかもしれない。
なんていうかな、ここでもまた非常にプライベートネスが前景化してきているわけですよね。
だけどこのプライベートネスっていうのは決してぼくに特異的なものだとは思わないんですね。
ん、えーと、ぼくは特異性ということはまずはすごくいいものだと考えています。
つまり、「このブログはこんなふうにプライベーティブで、すごく特異的でしょ」ってぼくが主張したとき、それはぼくとしては自慢しているつもりであるし、またさらに、いや違うだろうとツッコミが入るべきです。
そうではなく、それは今、ひとつの時代性だと思う。
この時代のひとつの特性がプライベートネスであると思う。
だからこのブログのプライベートネスは時代の効果であって、決してぼくの自由の効果ではない。
すいません、くどいですね。
ぼくがどこから話したものかな、と思って書いてるときって基本的に読みづらいです。
えっと、ここまでで出てきた問題はまずふたつある。
すなわち時代性としてのプライベートネス、自由と特異性と時代性の関係。
これはまた考えておきます。
で、それは置いといて別の話になるんだけど、ちょっと考えて今ふたつの文脈を提示することができるかなと思います。
・なんで「批評」なんてことを言い出したのか
・「オタク」でも「リア充」でもないものについて
上のほうはこのテーマから話を起こすと、まあ興味ねーよって思うかもしれないんだけど、これってぼくのいう「エロースの問題」、共同幻想をめぐる問題なんですね。
たとえば具体的なところでは「倦怠期の中年カップルにおける愛の再生のテーマ(カーヴァーとか竹内まりやとか)」とか「男女間の友情は可能か」とか「日本人の原罪をどう克服するか」とか「恋愛シュミレーションゲーム(いわゆるエロゲ)におけるニーチェの永劫回帰をどう生きるか(現代美術のシュミレーショニズムにも通ずると思う)」とかを考えられると思う。
下のほうは面白そうじゃない?
オタクを仲間殺しし、返す刀でリア充を斬ったら何も残らないように見える。
わかんない、まだ考えてる。
なんで批評なんて言い出したのかということ。
端的に言えば、今、趣味の世界に住み分ける、閉じこもるのがよいという向きが盛んです。
私の知ってるものはよい、知らないものは知らない。知ったこっちゃない。
人それぞれ。
ぼくはそれがいやなんですね。
一歩間違えたらおせっかいになってしまう、というかおせっかいだと思うんだけど、おせっかいにも濃淡がある。
相対的優劣がある。
洗練があると思うんです。
批評というのはあるテーマに埋没しないで、あくまで外にたって、外から評価を加えよう、理解しようということだと思います。
そして、その際には必然的に、「廃墟化」が伴う。
「廃墟化」というのはヴァルター・ベンヤミンさんの術語なんですけど、どうかな、ちょっとぼくなりの理解を説明します。
違ったらごめんね。
「廃墟」というのは「マジック」の対義語です。
ある対象に埋没した状態で、内在的に評価を加えるとどうしても甘くなっちゃうじゃないですか。
その(しばしば無自覚的な)バイアスをぼくはマジックと呼んでいます。
マジックにも種類があると思う。
これ書いたら怒られそうだけど、言ってみれば、ブスの中にフツーの子がひとり混じってると相対的に美人に見える。
そういう限定性がまずひとつ。
それから身内への甘さ。
おじいちゃんおばあちゃんが孫に甘くなるとしても、うーんまあ、ある程度は仕方がない。
「そんなのヒイキじゃないですか」っていうのがふたつめ。
もうひとつは恋愛の結晶化作用ということが上げられると思う。
竹田先生に教わったんだけどさ。
おととし書いた感想文があったりする。
『『「世界」の結晶作用』考察』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10111613633.html
一度惚れたらもうダメで、細かいミスみたいなものはみんなゼロ査定されるようになる。
「あばたもえくぼ」じゃないけど、フェアネスということではまあダメです。
しかし批評はそんなマジックを解除してしまいます。
クールに考量すると「ほっといてよ、人それぞれでしょ」ってことになる。
うん、ごめん、怒らせるつもりはなかったのだよ。
「廃墟化」ってたぶんそういうことだと思います。
それで、なんで批評の廃墟化作用にぼくが注目したのかというと、廃墟になった「あと」にまで続いていくような「強度」がそこにあるはずだと思ったからです。
「大きな物語の失墜」って結局「幻滅」であり「シラケ」だと思います。
最近の若者はシラケてるなとかあるいは草食系男子とか論点がありますよね。
「批評」はたとえば「草食系男子」を受けて、その先に連れて行ってくれるんじゃないかとぼくは思うのです。
また結晶化と幻滅ということでは「日本人の原罪」論に通じます。
ほら、ぼくも書いてたね。
「幻滅」が普遍性のキーかもしれないと思った。
日本人の〈原罪〉 (講談社現代新書) 北山 修,橋本 雅之 hyoroさんの感想 - 読書メーター
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/1816670
そしてこうした問題は換言すれば「幻滅した後、尚も愛はあるのか」ということにもなります。
ほらね、「倦怠期の中年カップルにおける愛の再生のテーマ」。
こうしたことの問題意識というのは以前からぼくの中にもあって、
幻滅ということは
吐き気がこみ上げてくる。
僕はうんざりするけれども、どうしようもない。
『正視』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10201079359.html
こちら。
そして幻滅以後の愛というのはそのものずばり「失恋ゲーム」という概念を考えています。
『「失恋ゲーム」の起源』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10413984018.html
『解題:「失恋ゲーム」』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10413990021.html
『メモ:日常系から「失恋ゲーム」へ。なぜ失恋「ゲーム」なのか。』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10416235050.html
『失恋ゲームと大人になるということ』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10419992767.html
『『らき☆すた』・ハイデガー・「失恋ゲーム」』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10438619259.html
けっこう考えてますね。えっへん。
それから、失恋ということが成立するには前提に「一夫一婦制」がある。
夫婦制度の問題に通ずる道をちらっと確認して、それから「恋愛シュミレーションゲーム」の問題系。
「恋愛シュミレーションゲーム」ではそのままですけど恋愛をシュミレートします。
結局ただのシュミレーションの問題と同じなんだけど、「そうではなかったかもしれない可能性」を呼び寄せないではいられない。
『単独性と偶有性』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10252087621.html
そして、誰かを選ぶことは別の誰かを選ばないことです。
イエスはノー、ノーはイエス。
これは手児奈姫にも通じるね。
『手児奈堂へようこそ』
http://tekona.luna.bindsite.jp/
別サイトね。ホームページ作ってたのね…おつかれさま。
また、「抜き差しならない究極的なエロス的関係モデル」というのはひとつには「三角関係」だと思う。
三角関係を考えるなら夏目漱石やドストエフスキーもいいかもしれない。
それで、三角関係についての吉本隆明さんの議論を呼んでおお、と思ったんだけど、三角関係というものは同性の人間のあいだにもある種の分かちがたい結びつきがないと成立しないんだってこと。
これが同性愛の問題、あるいは裏返せば「男女間の友情はあるのか」ということに通じていく。
これって突き詰めていくと、たぶん同性の友情もまた男女間における性愛と別のものではないんじゃないかという気もしてくる。
同性愛は視点の操作を加えればそのままBL論にも接続できる。
うん、長くなった。
・「オタク」でも「リア充」でもないものについて
こちらは簡潔にまとめよう。
ぼくはまだ誰も知らないものを見つけてやりたい、誰も成し遂げていないことを為してやりたいと思います。
これも必ずしもいいことだとはいえないとおもうけれども、まずはそういう考えを抱えている。
えーと、そうだな。これは概念化しておこう。
「まだ誰も知らないものを見つけてやりたい、誰も成し遂げていないことを為してやりたい」という情動を「好奇心」と呼ぶことにしましょう。
え、違うかな。うーん。
しかしこの「好奇心」は「自分探し」とは一致しない。
最大の違いは前者が「業績原理」、後者が「帰属原理」によって「私らしさ」を把握する点にある。
ごめん紙数の都合上細かい説明はまた今度。
あれ、道筋を見失った。うむむ。
えーと、今日、「オタク/リア充」という二項対立が広く受け入れられています。
でもぼくはそこには本質的な対立は存在しないと思う。
「あれかこれか」という問いがある。
これに答えず、「あれもこれも」とずらすことがある(弁証法ね)。
さらに、「あれでもない、これでもない」という解決がある。
ぼくはオタクにもリア充にも与しない。
オタクのなにがきらいか。
内容ではない、態度だ。
ぼくは「内在的評価=マジック」に甘んじることが受け入れられない。
オタクとおたくは一致しないが、かつてのおたくには共同幻想があった。
いいか悪いかはべつにしてその下では少なくとも批評は広く可能だった。
対して、リア充という呼称がまず気に食わない(名づけたのは二項対立のもとでは「オタク」サイドだけど)。
それはリアルではない。
『現実について』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10624603854.html
リア充も結局のところ「人それぞれ/自分さがし」=「金次第」イデオロギーから自由ではないように思う。
じゃあどうするのか、ということで上の部分、「好奇心」であり、さらに「批評」であり「アイデンティティの古典的模索」が到らざるを得ない「凡庸への道」なのだということになります。
『批評とはなんだろうか』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10718765747.html
批評とダンスはひとつことである。
そこで、親鸞の「非僧非俗」と道元の「心身脱落」を考える必要があるでしょう。
『生権力・専門性・ペン剣・ダンス・緑の灯火』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10721524450.html
またがんばって考えてみます。