僕は僕だ。僕でしかありえないんだ。
そりゃそうだろ、当たり前じゃないか…。
[たまたまレンガが(パチンコのネオンライトでもいいけど)
降ってきて、となりを歩いていた人が巻き込まれて亡くなる
のを目の当たりにする。]
となりにいた人はとなりにいた人でしかない。その人は
絶対に正しくその人だ。でも、レンガがぶつかったのは
たまたまだ…。それは僕でもありえたのか?
僕が死んだのかもしれないのか…?
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[現状/実際]
僕は僕だ、彼は彼だ。僕は彼のところにいなかった、
だから助かった。
⇒僕こそ彼だったのかもしれない。
僕は僕だ⇔僕は彼でもありうる
僕でしかない⇔僕でなくてもよい
Aだけだ⇔A以外(たとえばB/彼)でもよい
単独性⇔偶有性
僕こそ彼だったかもしれない、にも関わらず、
僕はどうしようもなく、この僕である。
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[ふつう/一般的に考えられている「当たり前」]
僕は僕だ⇔僕以外ではありえない
僕でしかない・だから・「僕でなくてもよ」くない
単独性は偶有性を排除し、偶有性は単独性を
排除している。
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○論理的には排他的に見えるこの感情が、実際には、
相乗的に互いを強め合っているわけです。
私がこの私でしかなかったという単独性の感覚がある
からこそ、同時に、でも、私こそが彼の立場でありえた、
彼でありえたはずだ、という偶有性の感覚も強まるわけです。
僕は彼だったかもしれないけど、でも、やっぱり僕だ。
たしかに、僕は今ここで僕をやってるけど別に君をやってても
構わない、みたいな感覚。みんなが知ってる僕、だれだれの
子供でだれだれの友達で、というような関係性の僕、「人間と
しての僕」。こういう目で耳で口の形で、髪が黒くて肌が黄色くて、
みたいな「ヒトとしての僕」と、そういう「僕像」というか、僕の靴や
僕の居場所にさ、たまたま、僕以前の、前個我的な魂が居座って
る、入り込んでる、割り込んでいる、という感じ。
さらに、「僕は僕だ」というとき、後ろの方の「僕」には、「人間としての
僕」、「ヒトとしての僕」以外にも「僕から見た僕像」、「僕という現実、現象
としての僕」がある。
「僕はやっぱり僕なんだ」って実感する瞬間はどういうものか、というと
ロジカルな行動、「常識的に考えて」行動している自分を見るときよりも、
感情的に行動する自分を見たときじゃないだろうか。
「時計の針を巻き戻しても多分僕は同じ事をしちゃうぜ、きっと」みたいな
わかっていてもやめられないような行動、もうほとんど意思下で
コントロールが利かないような行為をしちゃったときに、そう感じる。
「他ではありえないような、いや実際ホントしょうがなかったんだよって
いう現実としての僕」は「ヒトとしての僕」とはちょっとちがうよ。
「鼻血が出た」と「思わず好きだと叫んだ」とは両方とも僕には
どうしようもなかった、他の選択肢はなかったことだけど、前者は
「ヒトとしての僕」がやったことで、後者は「現実・現象としての僕」が
やったことだ。
「僕」なるもの
整理すると、「僕」はいくつかの要素の複合みたいだ。
とりあえず、今は三つに分類できるんじゃないかと考える。
□「人間としての僕/関係性の僕」
例:だれだれとだれだれの息子、だれだれの友達、
○年○組○番の出席番号の生徒、肩書きとか役職とか。
□「ヒトとしての僕」
生理的な、生物的な反射とか反応とか、実存のことを考えるに
しても、ご飯を食べ、トイレに行き、休息をとり、といったような
物理身体に行動の選択肢の幅を抑制されてしまうような僕。
例:「鼻血が出た」「おなか減った」
好き嫌い(嗜好)形成する要因のひとつ。というより嗜好に数え
られるものがある、というほうがいいかな。
□「僕という現実/僕の実際」
単独性を感じるときの絶対の僕。「僕ってこういう奴だ」っていう
イメージだと言ったらいいだろうか。これは他者が僕を見るときも
もってるんだけど、僕が自分に対して抱いている「実際としての僕」
のイメージの絶対性のほうがずっと強く感じられる。
他者からの「実際の僕」イメージとは、「あいつってああいう奴だ」
というイメージ。でもときどきイメージを破られたり、「意外な一面」
気づいていなかった別の顔を体験することでイメージは変化し、
書き換えられる。
例01:自分自身に対する、「現象としての僕/実際の僕」。
「僕にはどうせできっこないんだ」とか。
例02:他者からの「現象としての僕/実際の僕」。
「ジャイアンはいじわるで横暴な奴だ」
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「実はジャイアンって男気があって、友達想いで、すごくいい奴
だったんだ。うおー!心の友よ!!!」