生権力・専門性・ペン剣・ダンス・緑の灯火 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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『近代とはなんだろうか』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10713306339.html

ぼくにいわせれば近代性とは、「世俗的合理主義(変革可能性を信じること)」と「目的的成長主義(変革への意思)」のことである。


戦後の焼け野原(=劣った現実)から一生懸命働いて(=理念に向ってたゆまぬ努力)どんどん豊かになって(輝かしい理念)、政治の季節を迎える(=さらに理念)。

ここまでがとりあえず言ってみると積極的近代。

その後スカスカのモラルが説得力を失い、「劣った現実/優れた理念」の構図はそのままに、こちらに「劣った現実」、あちらに「優れた理念」、「本当は」こちらからあちらへ行くのが「よい」が、べつにいーじゃん「劣った現実」でも。

あたしはたのしいんだから。

これは消極的近代。

(『こうもりくん、暗躍す』、http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10713358733.html


消極的近代って目的的成長主義から逸脱してるから、ぼくの定義に悖るよね。

たしかに「無気力な若者批判」は近代なんだ。

しかし近代に戻ればみんな解決するのかといったら、そうは思わない。


近代以後・ポストモダンとは、「劣った現実/優れた理念」という構図はそのままに、現実に留まるってことになる、と思う。

劣った現実を生活と読み替えてもよい。

理念のほうは「人それぞれ」であり、個々の人間が「自分さがし」として閉鎖的な特定の理念に帰依するのがよい、とされている。

「人それぞれ」であるから、他の理念体系にコミットする人とは話が合わない。

ある島(価値体系)と別の島とのあいだには無関心という海峡が横たわっている。

海峡を越えてゆくことができるのはただ「金」だけである。


理念は「人それぞれ」だから議論は成立しない、話し合うことができるのはその下部構造たる「金」だけだ、というイデオロギーが支配的に機能しているのが現代である、というのがぼくの診断です。

ぼくのってべつにぼくの創見ではないですけどね。

誰にも否定できない正しさ、理念の中身という「各論」以前の、議論以前の議論だけしかハンドルできない、それが公共性だ、ということになっている。

ぼくはそうは思わない。

誰にも否定できない正しさとはここで「金」であり、「生命」である。

「分配」と「福祉」の政治。

これってまさに生権力の姿ですよね。


生権力というのは、遍在する現代の権力を考察する為にフーコーが提唱した概念です。

人が「権力」と聞くと思い浮かべるような「我輩の命令に背く奴みんな死刑」という暴虐な王様のような権力ではなく、生かし、「まとも」で「常識的」で「社会的」な性格へと矯正することを通して利益を増大させようとする、管理する権力です。

ね、「生命」と「金」。


『てんきよし』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10716739341.html


この議論を拡充してみよう。


ぼくは学校において「なぜ勉強しなくてはならないか」という問いへの解答はひとつしか耳にしなかった。

(ぼくも特に積極的に問うたことは一度もなかったけどね。「人それぞれ」…。)

それは「職業選択の幅が広がるから」。

職業にはたぶんふたつの含意がある(「がんい」って一発変換できないんだぜ)。


ひとつは「金」。

貨幣とは未来における欲求の充足可能性のことである。

「人はパンのみにて生くるにあらず」

欲求はすぐれて動物に属する性質である。

人と動物を分かつのは「欲望」であるし、くどいが「欲望は欲望を充足させるものすべての彼方を欲望する」のである。

欲求は欲望と一致しない。

欲望をつかまえることはできない。

つかまえようとしたそのときに、もうそこにはないものの痕跡が辛うじて目の端に過ぎるだけなのである。

対岸の緑の灯火。


もうひとつは「やりがい」=「生きがい」。

「休みが少なくて大変でしょう」

「ええ。でもやりがいがある仕事です^^」

やりがい!

ぼくは仕事のやりがいなるものに生きる意味を見出しちゃってるような奴を「大人」であるとは思わない。

仕事とったら何も残らないのかよ。

ふうん、つまらん人生だね。

そのやりがいってたぶん「専門性」ということだと思います。

誰にもできる仕事、しかしやりたがらない仕事、「雪かき仕事」についてのやりがいは本質的足るし、生きる目的としてはいけないんじゃないかと思うけど、こちらはある程度は正しいと思う。

でも専門性ゆえのやりがいは解体できる。


技術というのは二種類あると思うんです。

最先端の、イノベーティブな閉じた技術と、すでにある技術を汎用化する開いた技術。

汎用性の増加を徹底すると、ほとんどの専門性は無価値に近づく。

機械化を考えればいい。

専門性は解体傾向にある。

(これは職業だけでなく趣味でも同様だと思います。専門知に本質なし!)


では最先端のもの、イノベーティビティは本質的なのか。

ノー。

これぞ「近代」、目的的成長主義でしょう。

大学も企業もイノベーティビティを盾に正義面するのはやめてほしいね。


さて、じゃあどうするのか。

ぼくが指摘している通り「体系の乗り越え可能性はそれそのものに予め内包されている」。

ぼくが学校を批判するとき、その鍵は相手の内部から発見する。

すなわち「ペン剣」、

The pen is mightier than the swordである。

これは結構おそろしいことを言い当てている。


権力も財貨も威信も、暴力で奪うことができる。

でも愛と敬意と知性だけは剣を振り回しても手に入れることが出来ない。

愛も敬意も知性も、それを手に入れる可能性は万人に開かれている。

必要なものは進み出る勇気と礼節、一本のペンだけだ。

ぼくは権力や財貨や威信を盾にとる人間を潔しとしない。

ほとんどの人間は人生の意義なるものを愚鈍と慣れで代償している。

ばっかみたい。


が、じゃあどうするのか。

「ダンス」。

「ダンスフロアーに華やかな光/僕をそっと包むよなハーモニー/ブギー・バック シェイク・イット・アップ 神様がくれた/甘い甘いミルク&ハニー」

「ダンス」という概念は結構様々な思想に接続することが出来ると思う。

ニーチェはもちろん(ディオニュソス神ね)、ハイデガーや道元、デリダもいける。

ダンスには身体性が伴う。

ダンスと批評はひとつことである。


*


『バルーン・ガムとモンキービジネス』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10143859230.html


これなんのこっちゃわからなかったんだけど、もしかしてこういうことじゃないか。

バルーン・ガムとは身体性伴う「ピーマン」であり、モンキー・ビジネス(なかぐろいれろよ)とはこちらは簡単、「サル」である。

バルーン・ガムにハイデガー、モンキー・ビジネスにフランクリンの姿を見るね。

ってか日本人にサル呼ばわりされるって絶対いやがるよね。

まあ知ったこっちゃないけど。


*


こうもりくんシリーズはぼくの個人的な問題を現代社会批判の文脈に接続する回路です。

ぼくがちょっと前書いていたポエム崩れみたいな「これ見よがしの嘆き」がどう鍛え直されて批判の武器となるのか(そこまでの強度もないような気がするけど、ぼくとしてはそこからはじめざるを得ない)、興味があればどうぞ。


『こうもりくんの弁明』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10701453817.html

『真っ暗な薄明かり』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10702711696.html

『こうもりくん、街へ行く』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10703687161.html

『こうもりくん、暗躍す』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10713358733.html