動物園に行こう | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

僕は大きな柱時計のところにある、いつものベンチに座って、

誰かを待っていた。僕の正面の通路は多くの人々が行き交っていた

けれど、みな一様に急いでいた。僕なんか目に入らない。僕は

ちゃんとわかっていた。やっぱり、初めは怖いかもしれないけれど、

・・・だっていつも周りから与えられて、変わり続けてきたのだから。

だけどここはぐっとこらえて、きちんと見つめなければならない。

もうじきにその人がやってくるはずだということを、僕は知っていた。


でも、それでもやっぱり、僕は怖かった。本当にその人は来る

だろうかって。僕の身体は、虚空へと落ちていって、もうゆらめきも

届かない。本当に暗いところまで来てしまった。ここで急いでしまうと、

大切なものが損なわれてしまうから、じっと待たないといけない、

と、僕は自分に言い聞かせた。


彼にどんな言葉をかけてやればいいのか、ぼくには

わからなかった。


…言葉が続かない。


「じゃあ」、ぼくはなぜ考えて、なぜ書くのだろう。

なぜ眠られないんだ?


まあ、正直に言ってちょっとがっくり来た。

確かにきみの言ったとおり、「人の失笑を買うだけだ」ったのだ。


ホントにディスレクシアの波に呑まれそうだよ。


うん、よし、ぼくには時が共にある。


「きっと」と、ぼくは書く。


以降、中心には「きみの不在」が置かれる。


もうよい。「これでよい」。

だがぼくの言葉ではない。


*


さて、どこから書いたものか。


そうだ。


ぼくはどうしても生きようと思う。

どんな汚い手を使ったって、きっと生きるだろう。


あーあ、という気持ちが強い。

もうぼくの目にはきみは映っていないかもしれない。


ぼくはこれが正に世の中なのであってこれが現実であって

切実であって迫真であって壮絶であって

光り輝いていて暖かくて充実していて、

つまり「これ」だけが問題なんだということを、誰かに示してもらい

たかったのかもしれない。


だけど、それはどうも叶わなかった。

誰しも、そのことについて、本気で考えているようには見えなかった

のである。

だから、ぼくは自己自身によって考えざるをえなかった。


http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10663898028.html

ぼくは先にこう書いた。


ぼくは生命の充実ということを考える。

生命の充実とはなんだろうか。


以前書き損なったが、こう考えた。

「スケジュールの充実は生命の充実を少しも意味しない」

ぼくは今もそう思っている。

ハイデガーはそういう事態をして「頽落」と呼んだのだよ。

ぼくは正直に言って、ある種の人間をひどく軽蔑している。


じゃあどうしたらいいのか。


考えることだよ。ただどこまでも考えることだ。

それだけだよ。


ねえきみ、ぼくは反って、決意をしたんだよ。

どうしたって生きてやろうと思った。

ぼくは今度は孤独を直視したいと思う…。


ではなぜ書くのだろうか。


ぼくは自問する。

ここにはそれしかないからだ。


ぼくは世の中なんて本当にどうでもいい。

人が死のうが、きみが死のうが、

何かが腐敗しようが、そうか、と思う。


だがぼくはぼくなりの乏しい生の中で、

少ないなりに色々な考えに出会った。


ぼくは人間を信じてもいいかもしれないと思った。


ぼくは神がどうしたとかくだらない話をする奴らを

ひどく軽蔑していた。

バカなんじゃないのか。

それで死んだり殺したりしているのは滑稽だった。

アホくさい。


でもそうした浮ついたもの(一般にはイデオロギーだとか

宗教だとか言われる)を排除するには

人間に基礎を置くほかあるまい。


めちゃくちゃだね。論理もクソもないよ。


ぼくはさみしかったんだ。

それだけだ。


吉本隆明が書いていた。

人間には本当の意味での友だちというのは、世間で言われるよりも

実際は、もっとずっと少ないんじゃなかろうか。


ぼくは恐ろしいと思った。

太宰が何を書いていたのか、わかったような気がした。

ぼくはあんまり考えないようにしていたんだ。

悲しいからね。


人間を信ずるというのは、ひどく無謀な話だ。

その無根拠さは現実の無根拠さと同じものであるように

思われた。

だからそうした意味で、孔子はラディカルなんだ。


…なぜぼくは考えるのだろうか。

なぜ眠られないのだろうか。

なぜぼくは生きるのだろうか。


いや、そうか。

ぼくはずっと、そう問うてきたのだろうか。


*


何よりも、ぼくが悲しかったのは、

ここには時がないということだ。


これは特に恐ろしい事態だ。


ぼくはたしか、

「舌先三寸のクソ共とはちがって」と

書かなかったか。


舌先三寸と全身全霊の違いはどこにあると思う。


実際にはないだろう。


でも、ぼくとしてはそれは「時にある」と言うだろう。


つまりね、ぼくが言いたいのは、ぼくにとってこうした

問題というのは、何も今始まったものではないのだという

点にある。


「テクストは開かれている」という言葉を、ぼくはうまく

のみこめていない。


でもさ、たしかに、誤読というのはあるぜ。


ぼくが何よりも怒ったのは(怒ったのだ)、

あたかもぼくの話がぽっと出の、気まぐれだと思われて

いる(とぼくが思い込んでいる)点にある。


それはたぶん違う。

たしかに、(短くとっても)三年というのは、あまりにも

短い時間だ。

それは否定しないよ。


でもね、ぼくはずっと、同じ話をし続けているのである。


時がないというのはそういうことだ。

どいつもこいつも、無時間モデルを内面化しているらしい。


「ローマは一日にしてならず」って学校で習わなかったんだろうか。


*


ぼくは一体誰に話しているんだろうか。


受取人不在。


それがどういうことか、ぼくにはわからないな。


*


ぼくは独りよがりな人間がきらいだった。

押し付けがましい人間がきらいだった。


こういう書き方をするような独りよがりで押し付けがましい人間が

きらいだったのだ。


ここで感受性ということを俎上に載せよう。

諸刃の刃。

だがリスクテイカーだけが自由を得る、のである…。


感受性というのは問題を見る力のことだ。

真に哲学的な問題というのは、問いぬかれた挙句放り捨てられる

ような問題である。

感受性とはそうした問題についての感受性である。

ぼくは恐らく頭がいいとかバカとかいう言葉を、こういうことの

周辺で使っているようだ。


ぼくは己に感受性という問題をぶつけた。


「自己否定」という思想があった。


ぼくには疚しい所があった。

だから、ぼくは自分がきらいだった。

ぼくは自分を切り刻んでいった。

ぼくのすることだから徹底されていなかったかもしれないが、

他にはあまり見かけない運動であったように思う。


ぼくは社会的な価値を忌避した。

ぼくは自滅ということを考えていた。


この問題は三年よりももう少し長く深い。

ぼくがぼくを好きだった女の子について書いたのはそのためである。


ぼくにはなぜ自信がなかったのか。

もう自己否定という運動が始まっていたからだよ。

もちろん、当時はまだそんな言葉は知らなかった。


ぼくは一人称と三人称の暴力については、

執拗に追った。ぼくなりに、ということだけど。

きみのことはまるで放っておいた。

でもそれはきみが正しいことを少しも意味しない。


一人称と三人称というのは、

それぞれフェティシズムとイデオロギーに対応する。


が、問題は、自覚的に関係者の立場と通行人の立場を往還する

二人称による構造的な暴力の方だ。

それは見る暴力だ。

ぼくは今後、一方ではそれを追うだろう。


…落ち着いてきたらしい。眠くなってきた。



ぼくは、「きみにお願い」までは、

ほとんど完全に武装解除していた。

あれは「自己否定」挫折の碑でもあるだろう。

ぼくはきみの前に、腹を上にして身を投げ出していた。


「きみはぼくを殺すことが出来たし、また殺してもよかったのだ」


まだわからなくともよい。

そして、尚も、きみはぼくを殺してもよい。


だが、もはやきみはぼくを殺すことが出来ないだろう。


ぼくときみの最大の違いは、ぼくが状況にコミットしている点にある。

ぼくはシオヤタカユキという固有名の下に、

(話がこじれるのでカタカナですまない。要は保身のためである。

おしおのしおにやねのや、たかのはなのたかに「え」みたいなゆきである)

「ぼくがきみを殺した」という「加害者のポジション」を引き受けるだろう。


成熟とはこれ以外の意味ではない。



出来るというならぼくを越えてみろ。

ここに降りて来い。


ぼくはきみを待つだろう。


*


…。


と、ぼくはひとりごちて、寝床にもぐりこむのだった。


あーしかししらけてんなー。

きみたちマグロかっつーのよ。



…おやすみ。