あーっと。うん、おだやかに…。
まず、謝る。
ごめん。
この辺りだと、ここがなにかネガティブな渦の目に
なっているように思われる。
というか、ぼくは諸君に迂回的な毒を撒き散らしている
ような気がするな。
そうでもないかもしれないけど(つまり、「きみの相対的な
存在感なんてたかが知れているのだよ」と突っ込まれそう
だけどさ)、
でも、「解体的な言葉ばかり話している」のはぼくの方
だったように思う。
毒にも色々あるが、ここでは次のようなものだ。
一つは、ぼくは感情的になっていた。
「これ見よがしの嘆き」であるとか
「社会の矛盾に憤ってみせる」とか、
そういった感情的ふるまいの演技性については、
ある程度は自覚があった。
でも、ぼくたちを取り巻く状況の困難さに
ぼくはまったくやられてしまっていて、
それでさ、感情に委ねれば、事態を少しは駆動できる
んじゃないかと思ったんだよね。
実際、パトスには一定の説得性がある。
それが演技であってもね。
そして、ときに、思想の効果はその内在論理よりも
レトリックの豊かさによって決定されるところがある。
そういう効果を狙った部分はいくらかあるものの、
まあどこまで行っても言い訳にすぎない。
パトスの難点は、確かにまずは状況を動かすことは
できても、それが今度過剰になった局面において
停止することができないことにある。
その仕事を他人に投げるのはダメだろう。
しかも、そうしたときにはしばしば暴力が伴うものだ。
ぼくという人間のスケールの小ささを勘定に入れても、
まだ危険だった。ごめん。
というのは、かのヒトラーもはじめウィーンのホームレス
に過ぎなかったのだもの。
次に、ぼくは「逃走戦術」に執着していた。
これははっきり言って歴史に学ばない愚行であった。
最近の若い人は知らないかもしれないが、
かつてニューアカという運動があったのである…。
「主体」という言葉がある。
ぼくもろくに定義しないで使っている。
だが、印象としては「抑圧的」であり「封建的」であり
「保守的」であり「ダサい」のであって、
とにかく何かダメなものだと思っていた。
ジコチューって言うじゃん。
そりゃ言われたくないよね。
ぼくはとにかく、自分という制度がイヤだった。
ロジックはよくわからなかったけども、生理的に
なんかイヤだった。
「主体」に固執する人間はとにかくなんかバカで
下品でどうしようもないと思った。
そんな奴らと一緒にしてほしくなかった。
ぼくにおいて、無責任とは何よりも、
今日の高度情報社会において氾濫する過剰な情報の
流れに身を投げ価値判断が不可能になる程多くの
事例を吸い上げることを通して主体を積極的に壊乱する
自滅的な振る舞いをネグレクトした人間のほうであって、
少なくともぼくのことではないと思っていた。
でも、この転倒した論理は、たぶんやはり間違っている。
ぼくたちは「自由には責任が伴う」という言葉を耳タコなほど
聞かされてきた。
いわゆる自己責任論である。
その当否はひとまず措いて、
ここで言われる自由とは、主体的・能動的・自律的な行動の
自由のことである。
あるいは、「抑圧がなければ表現はない」という言葉を
挙げても良い。
つまり、それがどれほど好ましくないものであっても、
まずはつねに他者を傷つける可能性を伴う「主体」を引き受け、
行動をしなければ、世界は何も変わらないのである。
確かに、残念ながらあらゆる思想、あらゆる主張、あらゆる行動
は、潜在的に他者を傷つける可能性を予め内包している。
したがって、ぼくたちは、
己の諸手がどす黒い血に染まっていることを認め、
「加害者のポジション」を引き受けることなしに一切の自由を
手にすることはできないのである。
以降、ぼくときみたちにとって、ここが肝要である。
このことはぜひ覚えておいて欲しい。
三つ目は
諸君を信用していなかったかもしれない。
これが一番情けない。
ごめん。
これはたぶんツンデレをこじらせたようなものだと思うんだけど
諸君、諸君、とさも親しげに呼びかけているかのように
装っていながらその実、誰も信じていなかったかもしれない。
ところでぼくはツンデレが好きである。
ツンデレとはなにか。
「ツンデレとは、恋愛シュミレーションゲームの最も短い要約の
ことである」という秀逸な定義がある。
…ぼくの定義である。
「人間の欲望は他者の欲望である」が、
ぼくの欲望はあなたの欲望がぼくの欲望があなたの欲望であること
であることである。
ややこしいだろ。
つまり、だから、ぼくはあなたの心的傾向を模倣するのである。
けれども残念ながらここには論理の飛躍がある。
ぼくは、ツンデレもまたツンデレ好きであって欲しいという願望を現実と
取り違えているのである。
この辺りはやや倒錯している。
だからぼくもツンデレを模倣するのであって、
で、それがこじれたのだ。
ツンデレはほっとくとそのうち人間不信になる契機を内包している。
これは経験から得られたぼく自身の言葉であるから、
諸君もよく覚えておきたまえ。
(ツンデレはすぐに調子に乗るのである。)
さて、よし、そんなことはもうみんなやめにしよう。
大丈夫。他のやり方がある。
ぼくはもうホントに「カタギ」の道に戻ろう。
そこで、…(ずいっと前に身を乗り出す)、
諸君に相談である。
ぼくは常から「ここがロドスだ、ここで跳べ」という
言葉を己の規矩としている。
今!ここで!できないことは、
どこへ行ったってできないだろうということである。
これが逆に作用すると、永遠に逃走戦術を採らざるを
得なくなるのである。悲しいかな。
ぼくは世界はもっと気分良く住みよく美しくなってよいと
思っている。
そして、ぼくが観察した限り、平成に入ってからこの方、
あまり日本社会は良いほうには向っていないように思われる
のである。
昭和はもっと自由だったような気がする。
今よりずっと面白い奴がいっぱいいたし、
たしかに今ほど便利ではなかったが、
世界は広く日は明るく生活は笑いに満ちていて
結構楽しかったのである。
ぼくは知らないけど。
形骸化した民主主義と資本主義と自由主義に
彩られた戦後日本社会はついに爛熟期を迎え
社会は均質化と二極化と二つの運動が同時に作用し、
ニヒリズムが蔓延し新興宗教が乱立し官僚が腐敗し、
まあよくわからないんだけど、
現在のようなろくでもない状態に到ったのである。
今日、大まかに言うと、大人がいないのである。
大人とは「伝染するアモルファスな暴力」を調停するために
己の身体を差し出す人間のことである。
もう世の中の方はよい。
たしかにろくでもない。
だが、ぼくたちは「責任者はどこか」と、犯人探しの語法、
あるいは他責の語法はもう捨てようではないか。
ぼくときみたちは、成熟に駆り立てられているのである。
仕方あるまい。
ホントに、余所にはこうした「雪かき仕事」を引き受けようという
人間が、ぜんぜんいないのだから。
あなたとわたしが新しい時代なのである。
さて、そして、相談というのは、次のことである。
これまでも多くの人が「理念と生活との葛藤」というテーマに
悩まされてきた。
ぼくもこの問題から自由ではないようである。
うん、意固地になるのはやめる。
ぼくは言いだしっぺだが、とりあえず逃げる。
ちょっと野暮用があるので時間が欲しい。
ぼくはしばらく情報の摂取を大幅に制限する。
実際、この数ヶ月というもの、ほとんどマゾヒスティックなくらいに
「目下クソの役にも立たないこと」をしてきたように思う。
たぶんマゾなんだろう。
また、ニュースを見るのもやめる。
ぼくは己にセンチネル(歩哨)の役割を与えていた。
なにか世界に異常が起こらないか、監視していたのである。
そうした意味で「自宅警備員」という揶揄は鋭いと思う。
でも、ぼくは怖い。
よくわからないんだけど、たぶんぼくが自尊感情の大部分を
そうしたわけの分らないごっこ遊びから得ていたからである
ように思う。
怖いよ…。
怖いし、さみしいし、不安だ。
これから先、どうなっちゃうんだろう?
…だから、きみにお願い!
ぼくのごっこ遊びに付き合ってくれ!
ぼくは巷間にあふれる舌先三寸のクソ共とは違ってさ、
マジで世の中をよくしようと素朴に信じている。
それはなにか既存の善さに構造的にぶらさがるのではなくて、
ゼロから、ここから始めようと、マジで思ってる。
実際、ほとんどバカでキチガイに近い。
だって何の当てもないのだから。
だけどさ、たぶんこれ以外に道はありえないと思う。
三年かけて考えた。でも、他にはありえない。
ほとんど盲目的な、強固な信念だけが、ほんとうに世界を変えうる。
ぼくは信じている。
ヘルプミー!プリーズカムウィズミー!
ぼくにはきみが必要だ!
きみがいなくちゃ、ぼくは生きていかれないよ…。