ぼくの現在の政治的態度(なにかしらの価値)って、
すごく大雑把に言ったら以下のような歴史認識がある。
まず「戦後民主主義的なもの」のおしまい。
マスコミ(新聞+テレビ・記者クラブ)=間接民主主義、
すなわちマス・メディア(中間搾取体)の終焉。
次に、きちんとはまる言葉が見当たらないので
借用しますが、「2ちゃんねる的なもの」のおしまい。
小泉政権=ロスジェネ=派遣=匿名=論理
=ベンチャーの終焉。
ちょっと勉強が足りないのであやしいんですけど、
どうもロスジェネとネオリベみたいなのって互いに支え合って
いるような気がする。
「社会変革の急務たることを声高に叫ぶ真理を知る被害者」
って、私が失ったものをよこせって言ってるわけでしょ。
誰によこせって言うの?
オヤジの世代でしょ。
そこで共同的なものを解体する作用があるんじゃないか。
とにもかくにも、「正義=被害者」ヅラしやがるから気に食わない。
じゃあどうするのか。
表面的にはやはり「コミュニケーション」しかない。
みんながニコニコしている風景(「馴れ合い」)って、
新興宗教的な、ある種の袋小路、歴史の終わり、クソッタレに
しか見えないかもしれない。
「パスはアンパス、アンパスがパス」
そういうところで、ぼくはまず宙に浮いた「倫理」を引き受ける。
相変わらず「倫理」もきもいし、ニコニコしてる人々もきもいし、
こうしてそういった「茶番」に乗った自分自身もきもい。
んだけど、それはまあどこかで納得するしかない。
この部分で、ぼくに意味を備給してほしいなあというのが本音。
それは一方にあって、もう一方は、科学とその向こうに知の放擲
がある。
人生というものはそこに見出されると思う。
そのようなものの実践の総体として「大人」を想像している。
「きもさ」の「諦め」と、あと「知の放擲」という部分で
親鸞にヒントを求める。
吉本隆明による「最後の親鸞」を読む。
十全には理解できなかったものの、知ということ、俗ということ、
生ということについて、いくらかはわかったような気がする。
あと、「きもさ」の裏返しとして、部分的な正義ということも、
いくらかはまだ有効であるかもしれない。
その方向を今後の「政治」の可能性として残しておきたい。