ぼくなりの愛 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

でも、とりあえず、ちょっとみなさんにきいてみたいとおもいます。


なにをきこうとしているのか、というと、

「ぼくはどうしたらいいとおもう?」ってこと。


いや、というか、そうじゃなくて、「ぼくはかってにぼくのおもうとおりに

やらせていただきます」ってぼくは言い張っているに違いないのだけれど、

でも世の中ってそうなってないじゃん。


現にぼくは、「ぼくはどうしたらいいとおもう?」って口に(まあ書いてるん

だけどさ)出して言わないまでも、現にすでにあらゆる瞬間に、

きみがぼくになにを期待しているか、ということに想いを致しながら挙動を

決してるわけだよね。


ぼくを動かすものは「ぼくが「きみがなにをのぞんでいるか」と想像した

もの」だ。

ぼくはそこから自由になれない。

というか、その上にしか、自由も、不自由もない。


んなことはどうでもいいのよ。


ぼくが知りたいのは簡単で、「ぼくはどうしたらいいとおもう?」ってこと。


さらにさらに、ことを簡単にしたい。

それはなるたけ、ぼくを知る人に答えていただきたいからだ。


ぼくはこう考えていた。

友情とは、愛とは、あるいは仲のよさとは、依存関係ではない。

ここまではよろしいか。


すすめて、

「依存関係があるところに愛はない」


しかし、これはまあ嘘である。


依存関係ということばがいくらか怪しいが、簡単にいえば、

立場の高低のこと、あらゆる種類の、垂直的構造のことだ。

だって、金持ちと貧乏人がともに暮らすとしたら、

あるいは、老人と屈強な若者がともに暮らすとしたら、

そこには立場の高低から発生する「依存関係」が観察できるだろう。


けれども、そういった立場の高低は、世界に遍在している。

いや、こういったほうがいいだろう。そのような、垂直的構造のない

ところには世界はありえない。


存在とは運動のことだからだ。


話が見えないね。

もどろう。


「それはなるたけ、ぼくを知る人に答えていただきたいからだ。」


ぼくは今でも尚、愛とは、何かを期待することではなく、いかにして

期待に答えようとするかということの内に求めるだろう。

(ジョン・F・ケネディの言葉を想起されたい。「国家があなたのために

何をするかではなく、あなたが国家のために何ができるかを問いたまえ」)



つまり、これはぼくなりの愛だ。

ほーれ、うけとれ~。(何人かはわかるだろう。)


ねえ、どうしてほしい?


つまり、

(以下、先の「さらにさらに、ことを簡単にしたい。」の指示するところ)


たとえばね、

もっとおしとやかがいい、とか、あるいは、今のままぜんぜんきにしないで

ほしいとか、あるいはまた、暗い部分を表すことなく、もっと積極的な冒険

をしてほしい、とかね。


さあ、さあ!

きみときみときみときみときみときみときみときみときみときみときみときみは

とりあえず答えたまえよ。

なぜかって?我々にはそういう互助的な集まりが必要だからだよ。

つまり、今のぼくと、未来のきみのためには、ということだよ。

10年経ったらわかろうとも。


あ、きみもぜひ。いや、むしろきみのために書いたのかもしれない。

いやあ、あいつらはどうだっていいんですよ。

さ、さ、こっちへどうぞ。



えー…というような話です。

まあどうころんでもいいや。ぼくは知らんね。