龍馬伝の「ふたりの京」を観る。
龍馬の加尾に対するセリフがどうもいかんのではないかと
思う。なにがどう問題なのか、考えてみよう。
話を端折ると、坂本龍馬と平井加尾はハナレバナレになる。
そして、以下は「たぶんもう会えない」ところでの会話である。
加尾「私は昔のままです(つまり、要は「まだ好きだぜ」)。
龍馬さんは最後に別れを言いに来たんですね。
私は龍馬さんに会えて、少しの間とはいえまるでメオトのように
過ごせて、本当にうれしかったです。
でも、もう会えないのね?」
龍馬はん「すまん、加尾。すまん。…だが加尾、お前さんが
言ったことの中にはひとつだけ間違いがある。
ワシは(一人称なんだっけ?)あんたに会いに来たんだ。
(二人称も違う。)会いたくて、しかたがなかった。」
龍馬は結局、(なんやかやあって情報通であった)加尾から、
次に進む道を教えてもらう。次に進む、ということは、同時に
加尾との別れを意味する。
裏には龍馬と、加尾の兄貴との決別とか、なんやかやあるのだが、
構造だけとると、龍馬は女と志を天秤にかけて後者をとるのである。
それは仕方がない。いや、ほんとうは仕方なくなんかなかったのかも
しれないけれど、今のこのぼくたちは「龍馬が志をとること」が「仕方
なかったことになった」世界を選択した効果である。
だから、仕方なくなんかなかった世界の加尾と龍馬がどうであった
のか、ぼくにはうまく想像することが出来ない。
ま、とにかく問題とはそのことではない。
「愛にとって別離とは何か」
それが問題である。
ぼくが言いたいのは、たぶんこの福山龍馬にも、加尾と
「たぶんもう会えない」ことはよくわかっていたろうことである。
だって、志とるの手前でよくわかってるじゃない。
そこで、会いに行くってどうなんだよ、ってことだ。
もうこれっきり、と言って会いに行く場合(あたかもヘビースモーカー
の言い草である)、それは同時に「さよなら」であることを
自覚せねばならない。
加尾は、龍馬の訪問が「さよなら」でもあることをわかっていた。
だから、わざわざ自分からそのことに言及したのである。
龍馬は言い出せなかったから。
そこで、その手を払って「間違い」もクソもあろうか。
「これははじめは「さよなら」ではなかった。加尾がこのさきの道を
指し示したから(龍馬伝では加尾が龍馬に勝麟太郎の名を教える)
「さよなら」になったのである」
龍馬の「間違い」という説明はこういうことになる。
加尾はもう何も言わない。
ただ微笑んでいる。
だけど龍馬はセキニンをとってないように思えるのだ。
「ぽい捨て」までは、まあどうなんだろう、いいわけの余地はある。
だけど、せめてそこでは「私がきみを捨てた」という説明を引き受け
ないといけないとおもう。
そして、この場合に限らず、「愛」にははじめから「別離」が内包されて
いるように思うのである。
だから、ぎりぎりの場面でのふるまいは、大変普遍的な問題であると
ぼくは思う。
その場面での「倫理」みたいなものはすでに常にぼくたちの前にある。
「結婚は愛の墓場」ではない。
「墓場も愛」なのである。
だから、「愛ってそんな簡単じゃないんだぜ」というわけだ。